powered by 地図Z ※赤線は登城経路ですが大体の位置を示すものです。 |
城名 | 石神井城 | ||
住所 | 〒177-0045 東京都練馬区石神井台1丁目18 |
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入場時間 | 内郭:東京都文化財ウィーク期間内 |
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入場料 | − | |||
指定文化財 | 東京都指定史跡 | |||
城郭構造 | 連郭式平山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 豊島氏 | |||
築城年 | 鎌倉時代後期 | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 豊島氏 | |||
位置 | 北緯35度44分14.1秒 東経139度35分48.45秒 |
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地図 | 1 | 内郭跡 | ||
2 | 堀跡 | |||
3 | 虎口跡 | |||
4 | 殿塚 | |||
5 | 姫塚 | |||
【歴史】 石神井城は、秩父平氏の一族で、石神井川流域を中心とする現在の東京都区部北側の地域に平安時代末期から室町時代中期頃まで勢力を持っていた、豊島氏の居城でした。石神井川と三宝寺池に挟まれた標高約49mの舌状台地上に所在し、東西約350m、南北約350mの規模の主郭(内郭)と外郭からなる、比較的単純な構造の中世城館です。昭和31年(1956)以降の数次の発掘調査によって、主郭(内郭)や土塁築土から12世紀から16世紀前半までに属する陶磁器が出土しています。 文明8年(1476)、城主の豊島泰経は、武蔵守護の上杉顕定に背いた長尾景春に味方しました(長尾景春の乱)。そのために顕定を援助していた江戸城主の上杉定正(扇谷上杉氏)の家宰太田道灌に攻められることとなり、文明9年(1477)4月、石神井城は落城しました。 落城後、泰経が白馬に乗って三宝寺池に深く沈み、二女照姫も後を追って入水したなど、落城にまつわる伝説が伝えられています。 【感想】 普段はフェンス越しにしか見ることが出来ない城址ですが、東京都の文化財ウィークにはフェンス内の内郭に入ることが出来るようで行ってきました。内郭は意外に広く中世城館のイメージどおりでした。 石神井城のある石神井公園は自然豊かなので歩いてみると三宝寺池を挟んだ反対側の高台に落城時にまつわる殿塚と姫塚があり城に関係するものが見られて良かったです。歩かなければ気が付かなかったでしょう。 |
登城日 | 2013年11月4日(土) | ||
LINK | 照姫まつり公式サイト | |||
石神井城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【九曜】 (桓武平氏良文流) 豊島氏家紋 |
※文化財ウィークの展示説明板より |
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【三宝寺池】 | 【石神井城址碑】 | 【石神井城説明板】 |
【石神井城址碑】 | 【石神井城址】 通常はこのフェンス内(内郭)に入ることが出来ないためこのフェンス越しに見るのみとなる。 |
【石神井城址内入口】 文化財ウィークのみ入ることが出来る。 |
【土塁と堀跡】 | 【土塁と堀跡】 | 【土塁上】 |
【土塁上から見た堀跡】 | 【土塁上】 土塁が続いているので西側から南側まで行くことが出来る。 |
【虎口跡】 |
【内郭跡】 | 【南側堀跡】 三宝寺太子堂裏より撮影。 |
【南側土塁と堀跡】 三宝寺太子堂裏より撮影。 |
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【殿塚】 落城したとき城主豊島太郎泰経は黄金の鞍をつけた愛馬に乗り三宝寺池に沈んだという伝説があり、この塚を縁者が徳をしのんで築いたといわれている。 |
【姫塚】 落城したとき城主の後を追い、次女の照姫も三宝寺池に入水したという伝説があり、この塚を縁者が姫の供養のために築かれたといわれている。 |
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