城名 祇園城(別名:小山城)
住所 〒323-0025
栃木県小山市城山町
入場時間
入場料
指定文化財 国指定史跡(小山氏城跡として)
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 なし
築城主 藤原秀郷(伝)
実際には小山政光か?
築城年 平安時代(伝)
主な改修者 小山持政、北条氏照、本多正純
主な城主 小山氏、北条氏、本多正純
位置 北緯36度19分4秒
東経139度47分58秒
地図 本丸跡
馬出跡
二ノ丸跡
塚田曲輪跡
北曲輪跡
【歴史】
祇園城はJR小山駅の西方500m、思川東岸の台地上にある南北に長く西側は思川の浸食によって切立った崖になっていて、天然の要害をうまく利用している。東側は宅地造成が進んで旧状を失っているが、台地の部分には中世の名城の面影が良く残っており、史跡として保存が計られ、城山公園の名で市民に親しまれている。

縄張りとしては幅10m以上の空堀と土塁で仕切られた郭が並び、天翁院の北側の塁濠が城の北限を示している。南は思水荘の一帯に及んでいるが、南限の線は明瞭ではない。

小山氏は関東有数の豪族領主として知られ初代政光以来、鎌倉幕府で勢威を張ってきたが、11代義政にいたって関東管領足利氏満に叛したため滅亡した。

やがて、室町幕府の配慮により、同族結城氏から基光の次男泰朝が小山に入って第二次小山氏の祖となった。泰朝はおそらくこの城址の一郭に居をトしたと考えられるが場所は不明。その後3代持政のとき、時勢に考え見て大いに拡張整備された模様である。調度このころ関東は山内上杉と扇谷上杉、古河公方などの争乱があり小山氏もその争いに巻き込まれていくことになる。

小山氏は養子縁組を繰り返していくにつれ派閥が生まれ内紛が起こり、高朝の頃には山川氏系小山氏は排除され、結城氏系小山氏が成立していき、乱れていた小山氏一族及び家臣団を統制していくことになる。その後は結城氏・那須氏との連合により小田氏・佐竹氏・宇都宮氏連合と対立が起こるが、永禄3年(1560)関東管領となった上杉謙信が関東出兵以降、関東の様相は大きく変化していくことになる。それにより上杉氏とそれに対抗する後北条氏とに翻弄されることになる。

天正3年(1575)後北条氏の猛攻により祇園城は落城し、秀綱は常陸佐竹義重の元へ逃れた。このとき北条氏照によって祇園城は大規模に拡張・整備を行ったと思われます。

天正10年(1582)甲斐武田を滅ぼした織田信長の家臣滝川一益が厩橋城に入ると祇園城は信長が後北条氏と交渉し、秀綱に返還された。これは旧小山氏の統制を計るために派遣されたという感じであったであろう。信長が本能寺の変で横死すると、厩橋城の滝川一益は後北条氏と戦ったが破れ自城のある伊勢へ逃げ帰ったため、小山氏は再び後北条氏の勢力下に入ることになる。

天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原城攻めの際、小山氏は北条氏に加担していたため、後北条氏滅亡とともに所領を没収され、追放となった。

江戸幕府成立後本多正純が3万石で城主となり、最終的な縄張を完成させ、東西約400m、南北700mに及ぶ城郭となりました。この正純も元和5年(1619)宇都宮へ転封となり、祇園城は廃城となった。

【感想】
小山と言えば小山評定でぐらいしか思い浮かびませんでしたが、祇園城と呼ばれる城址があることを知り行ってみると思っていた以上に郭間には大規模な堀切があり、馬出と呼ばれる箇所にはL字の空堀が見られテンションが上がりました。さらに奥へ進めば天翁院の方まで遺構は続いており、そこには小山氏の廟もあり名族小山氏の歴史を知ることが出来ました。


登城日 2013年12月30日(月)
LINK とちぎふるさと学習-小山氏城址(祇園城)
小山城(下野国)-Wikipedia
城主家紋 【二つ頭右巴】
(藤原氏秀郷流)
小山氏家紋
【三つ鱗】
(伊勢平氏流)
後北条氏家紋
【立ち葵】
(藤原北家兼通流)
本多氏家紋

                      

探訪

※説明板より
【小山評定跡】
祇園城とは直接関係がないが小山市役所の一角に碑があります。
【小山御殿跡】
小山市役所横のこの場所に徳川将軍が日光社参の際の休憩・宿泊所として利用した。
【本丸横の堀跡】
【城山公園入口】
ここから入るといきなり本丸跡になる。
【本丸跡と城山公園碑】
祇園城には城址碑がありませんでした。
【本丸土塁】
【本丸土塁】 【土塁上】 【祇園橋と堀切】
本丸と二ノ丸間の堀切は以前結城道として利用されていた。
【祇園橋】 【本丸と二ノ丸間の堀切】 【祇園橋と堀切】
堀切の先は思川へと続く。
【馬出虎口】 【馬出跡】
馬出跡はL字の空堀に囲まれた部分にある。
【二ノ丸へ続く橋】
この下にも堀切がある。
【馬出跡のL字形空堀】 【馬出跡のL字形堀切】 【二ノ丸跡】
【二ノ丸の土塁】 【二ノ丸跡】 【二ノ丸土塁】
【二ノ丸土塁】 【祇園城跡の大銀杏】
この大銀杏は、樹高15mの古木で、伝説によると落城の折、姫君が井戸に身を投げた際、目印に刺した銀杏が大きくなったという言い伝えがある。
【二ノ丸虎口】
【塚田曲輪へ抜ける橋】 【塚曲輪へ抜ける橋】 【橋の下の堀切】
【橋の下の堀切】 【塚田曲輪虎口】 【塚田曲輪跡】
【塚田曲輪土塁】 【駐車場(曲輪跡)につながる橋】 【駐車場となっている曲輪跡】
【塚田曲輪と駐車場になっている曲輪間の堀切】
この堀底道がそのまま二ノ丸虎口へとつながる。
【堀切】
この先でT字形になっている。
【堀切】
【堀切】
この先は思川へとつながる。途中に見える柱みたいなものは携帯の基地局。
【堀切】 【堀切東端】
現在はゲートボール場になっている。
【天翁院】
小山氏の菩提寺。
【天翁院にある北曲輪跡】
右側が天翁院、左側が北曲輪跡。
【小山氏廟】
 
【観晃橋から見た祇園城と思川】
これを見ると祇園城の規模がわかる。



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