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城名 | 結城城(別名:臥牛城) | ||
住所 | 〒307-0001 茨城県結城市結城2485-4 |
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入場時間 | - |
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入場料 | - | |||
指定文化財 | - | |||
城郭構造 | 平城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 結城朝光 | |||
築城年 | 治承年間(1177~1180)または南北朝動乱期 | |||
主な改修者 | 水野勝長 | |||
主な城主 | 結城氏、水野氏 | |||
位置 | 北緯36度18分28.88秒 東経139度53分9.44秒 |
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地図 | 1 | 主郭跡(結城時代) | ||
2 | 館跡(本丸跡:水野時代) | |||
3 | 館跡西側内堀跡 | |||
4 | 館跡南側内堀跡 | |||
5 | 結城城西側掘割 | |||
【歴史】 結城城は治承年間(1177~1180)に結城朝光が築いたとされるが確証はない。むしろ南北朝動乱期に築城されたと見るべきであろう。 その後、結城家は室町時代に関東八家の一つ列して勢力をふるい、戦国時代には宇都宮・佐竹氏らと伍して生き残り、天正19年(1591)徳川家康の次男秀康を17代晴朝の養子にもらい受け、慶長6年(1601)越前福井への国替えまで関東の雄として栄えた。 結城氏の転出後、結城城は廃城となったが、元禄13年(1700)水野勝長(1万8千石)の入部によって再興され、明治に至まで水野家の居城となった。 結城の名を不朽に残したのは永享12年(1440)の結城合戦である。関東公方足利持氏が将軍義教と争って滅ぶと結城家11代氏朝(1402~1441)は、持氏の遺児春王丸と安王丸を奉じて兵を挙げた。 幕府は諸将に氏朝らの討伐を命じたが、結城落城まで1年余りの歳月を費やし、結城の名を天下に轟かす結果となったのである。 (説明板より) 【城について】 結城城は、鬼怒川と田川によって形成された低地に突き出した台地を利用して築かれました。したがって、城の周囲は沼や深田で取り囲まれたうえ、さらにその北側から東側にかけて田川が流れるなど、平城でありながら天然の要害になっていました。 城は、実城・館・中城・西館・東館と呼ばれた五つの大きな曲輪と、付属的な曲輪から構成されていました。現在、城跡公園があるところが館で、江戸時代に結城水野氏が城を築いたときには、この部分が本丸でした。また、この館の北側に、現在は残されていませんが、かつては五反ほどの曲輪が存在し、室町時代の結城氏の城では、実城と呼ばれ、主郭であったと考えられます。また、館の西側の曲輪が西館で、南側の曲輪が中城、さらに中城の南側で、城の一番南に位置しているのが東館です。 これらの曲輪は、内堀で区切られていました。城全体をほぼ南北と東西に分ける内堀は、深さ6~7m、幅20~25mに及ぶもので、台地上で水は出ないため、空堀でした。 この曲輪と曲輪を結ぶため、内堀には土橋や木橋が架かっていました。現在、城跡公園から南に通じる道路には、館と中城を結ぶ土橋が残され、浄水場の正面前の道路も館と西舘を土橋であると考えられます。 (説明板より) 【感想】 城跡は宅地化、館跡も公園化され遺構の保存状態は良くはない。然しながら周囲に内堀が比較的よく形状をとどめているので館の規模などは想像できます。 館の南側には竹藪があり、その中に入ると内堀を確認することが出来ます。 |
登城日 | 2014年3月21日(金) | ||
LINK | 結城城-Wikipedia | |||
城主家紋 | 【三つ巴】 (藤原氏秀郷流) 結城氏家紋 |
※説明板より |
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【結城用水】 | 【結城城掘割】 結城城の西側堀跡。そこには公園が作られている。 |
【館跡西側の内堀】 正面に見える竹藪の中に館跡南側の内堀がある。 |
【館西側土橋跡】 | 【聰敏神社】 旧結城藩水野家初代水野日向守勝成功を祀った神社。 |
【聰敏神社 本殿】 この部分も結城家時代の館跡、水野時代の本丸跡となる。 |
【聰敏神社裏手より見た今はない主郭跡】 | 【館跡の北側の現状】 この左側にはかつて結城時代の主郭があったとされる。その頃にはこの場所に下へ降りる虎口はなかった。 |
【今は消失した主郭跡】 |
【館跡の切岸】 | 【結城合戦タイムカプセル埋設記念之碑】 何を埋めているのかは不明だが2041年4月16日に発掘するそうです。 |
【城跡公園入口】 館跡西側虎口跡。 |
【館跡】 城跡公園南側の梅林。 |
【館跡南側虎口と土橋跡】 | 【土橋と内堀跡】 |
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【館南側内堀跡】 土橋下の内堀よりも南側に位置するがここも内堀であろう。 |
【館南側内堀跡】 | - |