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城名 | 伊佐城 | ||
住所 | 茨城県筑西市中舘522 | |||
入場時間 | − |
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入場料 | − | |||
指定文化財 | 市指定文化財 | |||
城郭構造 | 平城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 藤原実宗 | |||
築城年 | 天永2年 | |||
主な改修者 | 伊達朝宗 | |||
主な城主 | 伊佐氏 | |||
位置 | 北緯36度19分57秒 東経139度58分35秒 |
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地図 | 1 | 本丸跡 | ||
2 | 櫓跡 | |||
3 | 南曲輪跡 | |||
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【歴史】 天慶3年(940)、平将門の乱の際、藤原秀郷(俵藤太)が将門追討のために築いた上館(元館)・中館・下館の三館のうちの中館であるという伝承がある。 伊佐城は、天永2年、藤原実宗が常陸介に任じられ、伊佐荘に居を構えたことに始まる。 5代朝宗(常陸入道念西)のとき(平安時代末期)に城として改修されたと思われる。その朝宗は、頼朝の奥州征討の戦功により陸奥伊達郡を与えられ伊達氏を名乗る(戦国大名の奥州伊達氏の祖)。朝宗の子為宗と資綱はそのまま伊佐に残り伊佐氏を称した。 記録に伊佐城の名が登場するのは南北朝時代で、南朝方の伊佐氏が伊達行朝を城に迎えて、北畠親房が拠点としていた小田城など南朝方の諸城とともに、北朝方の高師冬軍の攻撃を防いだが、康永2年/興国3年(1343)、落城した後に廃城となった。 現在、中館観音寺のある一帯が伊佐城跡であるといわれている。 城の遺構はほとんど残っていないが、同寺の本堂脇に伊佐城址の石碑が建っている。 (参考文献:日本の城がわかる事典/講談社 他) 【感想】 城域は五行川沿いの細長い形状をしている。城跡には寺になっており改変も多いが、僅かに往時の雰囲気は残っている。 東北大震災の影響だろうか、藩主の墓標が倒れたままになっているのは残念でした。 早く元に戻して欲しいものです。 |
登城日 | 2014年3月21日(金) | ||
LINK | 伊佐城-Wikipedia | |||
城主家紋 | 【九曜】 (桓武平氏流) 伊佐氏家紋 |
【伊佐城址南側虎口】 | 【延命橋】 往時もここに木橋が架かっていたのであろう。 |
【堀切跡】 青い看板の向こうには五行川があります。この五行川が城の東側の守りになっていたのでしょう。 |
【南の曲輪跡】 | 【観音堂】 旧国宝、現重文の「延命観世音菩薩像」が安置されています。 |
【伊達宮内大輔行朝公供養塔】 |
【伊達宮内大輔行朝公供養塔】 | 【南の曲輪脇参道】 | 【五行川付近より見た南の曲輪】 |
【南の曲輪と主郭の間の曲輪】 | 【五行川付近より見た主郭】 | 【五行川】 伊佐城の東側を守る天然の濠。 |
【延命水】 | 【主郭下の曲輪の土塁】 参道を分けるための物なので後世の物と思われる。 |
【主郭下の参道】 |
【観音寺山門】 | 【主郭跡】 | 【下館藩主石川総管の墓】 |
【倒れた墓標】 | 【主郭土塁】 | 【観音寺本殿】 |
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【伊佐城址碑】 | 【櫓跡】 写真は、市指定文化財天然記念物観音寺大欅の標柱をメインにとってしまったので櫓跡が半分しか写ってませんでした。 |
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