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城名 | 茂木城(別名:桔梗城) | ||
住所 | 〒321-3531 栃木県芳賀郡茂木町茂木2188 |
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入場時間 | − |
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入場料 | − | |||
指定文化財 | 町指定文化財 | |||
城郭構造 | 山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 茂木(八田)知基 | |||
築城年 | 建久3年(1192)頃 | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 茂木氏 | |||
位置 | 北緯36度32分13秒 東経140度11分10秒 |
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地図 | 1 | 本丸跡 | ||
2 | 二ノ丸跡 | |||
3 | 三ノ丸跡 | |||
4 | 出丸跡 | |||
5 | 模擬望楼 | |||
【歴史】 鎌倉幕府の有力御家人八田知家は、奥州藤原氏討伐の際の功により、源頼朝から下野国茂木郡を賜り、三男知基をしてここを守らしたのが建久3年(1192)である。 知基はこの地の桔梗山に城を築き茂木氏を名乗った。以後400年16代にわたり茂木氏の居城となり、慶長15年(1610)細川興元によって廃城になるまで続いた。 茂木氏は武勇の士として知られていたが、特に南北朝時代には大いに武名が上がり歴史の中に度々現れる。その間二度にわたり落城もしている。 徳川氏の時代になると、佐竹氏とともに秋田へ転封になり茂木氏の時代は終わった。細川忠興の弟興元は茂木を領するや、城下の盆地に陣屋をつくり茂木城を廃した。 その後茂木城跡は耕地や山林として利用されたが、空堀や土塁、池など戦国時代の山城の戦略的な機能はそのまま保存されており、茂木町の誇れる文化財になっている。 (説明板より) 【感想】 桔梗山上は意外にも広く、本丸は公園として整備されているが、二ノ丸は杉林、三ノ丸にいたっては放置状態の藪となっているのは残念である。 出丸には折れを持った堀切もあり、周囲は二段で構成され、上段は馬場としても使用され茂木城最大の防御ラインだったと思われる。 |
登城日 | 2014年3月22日(土) | ||
LINK | 笠間城-Wikipedia | |||
城主家紋 | 【花洲浜】 (藤原道兼流宇都宮氏族) 茂木氏家紋 |
※説明板より(加筆有り) |
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【茂木城遠景】 正面が桔梗山に築かれた茂木城址になる。 |
【駐車場から見た出丸の橋】 | 【出丸の木橋跡】 |
【出丸跡】 | 【折りのある堀切】 | 【折りのある堀切】 |
【出丸南側の馬場跡】 | 【姫の望楼】 出丸下には望楼があったそうだがこれは模擬である。 |
【望楼からみた茂木の町並み】 |
【望楼からみた出丸跡】 | 【出丸南側馬場跡】 | 【出丸東側馬場跡】 |
【大手門跡】 | 【大手門跡】 | 【本丸・二ノ丸・三ノ丸に囲まれた曲輪】 溜池、千人溜、鏡ヶ池がある。正面の林が二ノ丸。左側が本丸跡、右側が三ノ丸跡となる。 |
【千人溜】 | 【鏡ヶ池】 | 【本丸跡を望む】 |
【本丸跡】 | 【茂木桔梗城跡譜】 | 【本丸土塁】 |
【望櫓跡】 望櫓跡には何かの台座が置かれている。 |
【本丸西側の堀切と曲輪】 | 【本丸西側堀切】 下側より見た堀切。 |
【本丸土塁上】 | 【本丸東側堀切】 左側が本丸、右側が二ノ丸になる。 |
【二ノ丸跡】 |
【二ノ丸跡より見た堀切】 | 【二ノ丸と三ノ丸の間の堀切】 | 【大手門跡付近より見た三ノ丸跡】 全くの手つかず状態の三ノ丸跡。 |
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【三ノ丸の堀切】 | − | − |