城名 久下田城(別名:河連城・生牛城)
住所 〒308-0001
茨城県筑西市樋口158
入場時間
入場料
指定文化財 茨城県指定文化財
城郭構造 丘城
天守構造 なし
築城主 水谷正村
築城年 天文14年(1545)
主な改修者
主な城主 水谷氏
位置 北緯36度22分25秒
東経139度58分27秒
地図 本丸跡
二ノ丸跡
三ノ丸跡
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【歴史】
久下田城は、天慶年間(938〜948)、藤原秀郷が平将門追討のために築いた三館(上館・中館・下館)のうち上館にあたるという伝承がある。

場所は真岡鉄道久下田駅の東方に位置し、栃木県二宮町(現・真岡市)に境し大字樋口字城山一帯が城跡であったが、往時は二宮町の台を含み規模が大きかった。別名:河連城・生牛城とも称されている。

五行川右岸の段丘上に築かれた丘城で、本丸・二の丸・三の丸から成り、城の東側は高さ10mの土塁と五行川を利用して水堀とした急崖をなし、西及び南側には幾重にも堀をはりめぐらし、その堀幅は8〜10m、深さ6〜7mあり、かなり堅固であり、往時は水堀であったといわれる。西側の大きな堀は、現在真岡鉄道の軌道敷になっており、また二ノ丸跡には稲荷神社が祀られ、本丸は竹林、三の丸その他は畑地や宅地になっている。南方の堀は埋められて道路になっているが、ほぼ原型に近い形で残っている『久下田城絵図』には、ほかに寺院・家老屋敷・武家屋敷があったことが記されている。

天文13年(1544)下館城主水谷出羽守兵部大輔正村は結城氏の姫を嫁にする際に引出物として五所領5か村をもらったが、翌14年に姫君が逝去したのを機に、入道して蟠龍斎と号するようになる。

天文13年10月に結城氏に言上し、宇都宮氏に備えて築城したものという。同年11月に高さ約4mの土塁と堀が完成したので、久下田城に移った。久下田に築城後は、武威を近隣にとどろかせ、特に芳賀城とは抗争を繰り返し、のち天正13年(1585)田野城を攻略したから、下館城の支城として機能していたと思われる。

慶長3年(1598)に正村が没すると、この地は水谷氏が領有して弟の勝俊に受け継がれたが、子の勝隆のとき、元和元年(1615)江戸幕府によって一国一城令が出されたため廃城同然となり、寛永16年(1639)備中松山に移封されたのを機に完全に廃城となった。


【感想】
二ノ丸は公園化されているとのことであったが行ってみるとそこは廃墟に等しい状態であった。二ノ丸を囲む堀跡は、良い形状を残しているのに不法投棄のようなゴミも散在し残念である。
八幡神社跡の参道を下れば崖下へ降りることが出来、丘城ということが良くわかる。



登城日 2014年3月22日(土)
LINK 久下田城-Wikipedia
城主家紋 【三つ巴】
(藤原秀郷流近藤氏族)
水谷氏家紋

                      

  
探訪

※説明板より(加筆有り)
【三ノ丸跡】
武家屋敷が建っていたようである。
【二ノ丸虎口】 【二ノ丸西側堀】
【久下田城址保存会の碑】
なぜ保存会の碑がと思ってしまう。保存会があるのにこの荒れよう…
【八幡神社跡】
鳥居、お稲荷さんは残るが肝心の祠はなくなっている。
【二ノ丸土塁】
【二ノ丸跡】
日本城郭体系ではここが本丸とされている。
【二ノ丸西側堀】
南側から北方向
【二ノ丸西側堀】
北側から南方向
【二ノ丸北側堀】
右側が二ノ丸、左側が本丸になる。
【本丸跡】
現在は竹林になっており、遺構はわからない。
【二ノ丸下(八幡神社参道入り口)】
【水堀跡】 【五行川】 【二重堀】
右が水堀跡、左が五行川となり二重堀を形成していたと思われる。
探訪〜芳全寺
【鐘堂】 【蟠龍の釣鐘】
本物は大戦中の戦時供出で失われ、模造されたものです。
【水谷蟠龍斎の墓】



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