城名 膳城
住所 〒371-0204
群馬県前橋市粕川町膳85
入場時間
入場料
指定文化財 群馬県指定文化財
城郭構造 丘城
天守構造 不明
築城主 善氏
築城年 15世紀中頃
主な改修者
主な城主 膳氏
位置 北緯36度25分16.60秒
東経139度13分23.60秒
地図 本丸跡
二ノ丸跡
袋曲輪跡
北曲輪
西虎口
【歴史】
膳城跡は、兎川と湧水による湿地による湿潤な谷地の間の丘陵性合地の先端部に位置する。南北約550m、東西約300mほどの範囲の中に濠や土塁をめぐらし、本丸の他、数区画からなる郭を形成している。

この城の築城年代は明らかではないが、鎌倉時代の文書に既に「善」氏の名が見える。しかし、この膳城に居城していたかについては明らかではない。その後、室町時代から戦国時代にかけての文書にも「善」氏は度々登場する。戦国時代には、関東地方の覇権をめぐる北条、上杉、武田の戦記物に度々「膳」の名が現る。現在見ることのできる膳城の姿が形成されたのは、この戦国時代末期と考えられる。特に天正8年(1580)武田勝頼による東上州進攻の際の、膳城をめぐる攻城戦は「膳城素肌攻め」として著名である。

膳城はこの戦いの後、廃城となったと伝えられる。本丸周辺の濠、土塁等は当時の姿を良く残している。
(本丸説明板より)


【膳城素肌攻め】
御館の乱の中で上杉景勝を支持した武田勝頼は、上杉景虎派の厩橋城を攻略後、そのまま赤城山南麓の大胡城、山上城、伊勢崎城
を攻略していた。
攻略後人身安定のために平服のまま各地を巡察して周っていたおり、膳城の付近に通過した。当時膳城では酒宴が行われ喧嘩沙汰も起きており、武田軍を見た一部兵士が激高し武田軍に攻撃を仕掛けてしまった。この結果、武田軍は平服のまま反撃を行い膳城は落城、河田備前守や城代・大胡民部左衛門が討ち取られてしまった。これを「膳城素肌攻め」と言う。


【感想】
素肌攻めで有名なお城ですが、お酒を飲んでいた敵兵ですから敵兵も鎧なんか着けてなかったのかも知れませんね。
城址はというと堀に囲まれた曲輪を見ることができ、堀も結構複雑で折りも見られます。
堀底は遊歩道化されている部分もありますが、堀底をそのまま利用しているので形状はより分かりやすくできています。



登城日 2014年3月29日(土)
LINK 公益財団法人 群馬県埋蔵文化財調査事業団-膳城-
膳城-Wikipedia
城主家紋 【鐙のかこ】
(三善氏支流)
膳氏家紋

                      

  
探訪

※説明板より

※膳城公園案内図より(加筆有り)
【北曲輪跡】
現在は駐車場と前橋市粕川出土文化財管理センターになっている
【北曲輪の堀跡】 【北曲輪の堀跡】
【外堀跡】 【外堀跡】 【袋曲輪跡】
【土塁上の古塔】 【西虎口】
膳城の搦手になる
【西虎口付近の外堀跡】
【二ノ丸虎口跡】 【袋曲輪と二ノ丸間の内堀跡】 【二ノ丸跡】
【二ノ丸と本丸間の内堀跡】 【二ノ丸土塁】 【二ノ丸と本丸間の内堀】
【本丸跡】 【本丸の城址碑】 【本丸虎口の城址標】
【馬出曲輪跡】
道から向うが馬出曲輪であった
【本丸と馬出曲輪間堀跡】 【本丸南側堀跡】
【本丸南側堀跡と大土塁】 【二ノ丸と本丸間の内堀跡】 【二ノ丸と本丸間の内堀跡】
【二ノ丸と本丸間の内堀跡】 【北曲輪と本丸間の外堀跡】
遊歩道の形状で曲輪に折りがあることがわかる
【膳城公園の冠木門】
【膳城模擬天守】
膳城公園内の遊具



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