城名 大胡城
住所 〒371-0214
群馬県前橋市河原浜町660番地12
入場時間
入場料
指定文化財 群馬県指定文化財
城郭構造 平山城
天守構造 不明
築城主 大胡氏
築城年 不明
主な改修者 牧野氏
主な城主 大胡氏、益田氏、牧野氏、酒井氏
位置 北緯36度25分11秒
東経139度9分33秒
地図 本丸跡
二ノ丸跡
北城跡
横堀
枡形門跡
【歴史・沿革】
城跡は、南北に走る丘陵上にある平山城で、本丸を中心に二ノ丸を囲部的に配し、北に北城(越中屋敷)、近戸曲輪、南に三、四ノ曲輪があり、東は荒砥川が流れ、その間に根小屋、西には西曲輪の平坦部が附加され、南北670m、東西最大幅310mの規模を持つ。枡形門、水ノ手門虎口、空濠、土塁等の跡が良く残っている。

平安時代、平将門の乱を平定した藤原秀郷からの系譜といわれる大胡氏が築城したと考えられるが、築城年については史料が少なく不明である。また、その後の城主の変遷も不明点が多い。基本的には大胡氏が築城し、その後天文10年(1541年)、金山の横瀬氏(由良氏)の勢力が強大となってきたため、大胡氏は当地域をすてて江戸に赴き、牛込城に移ったといわれる。
しかし、そのまま大胡城に残る大胡氏もいたようであるが、大胡氏に大胡城を維持するだけの実力はなく、新田金山城主横瀬国繁方となった大胡城には、配下の益田氏が居城したという。城主として益田氏は4代続くが4代目の茂政のとき落城し新田へ移住、横瀬景繁の娘を娶り続いたとある。
大胡一族の上泉氏の家伝や上泉氏子孫の上泉信綱関連の書物によれば、信綱や上泉氏一族などが城主だったともいわれる。

その後、上杉、北条の抗争の中で、大胡城も転変にさらされていく。横瀬氏が北条方に寝返ると、上杉謙信は大胡城を攻め落とし、配下の北条(きたじょう)高広を城主として入れた。しかしこの北条高広も後には謙信を裏切ってしまう。後に越・相同盟が成立すると、北条高広は謙信に許され、厩橋城(前橋城)に復帰した。高広は前橋城を子の景広に譲り、自身は大胡城に隠居したと言われている。

天正18年(1590)後北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると徳川家康が関東に入部し、牧野氏が大胡領2万石に封せられ、康成、忠成二代の居城になった。牧野氏は元和2年(1616)に越後長峰に5万石で転封され、以後大胡城は前橋藩領となり、前橋城主酒井氏の管轄となった。酒井氏時代には城代が置かれたが、寛永2年(1749)酒井氏が姫路へ転封に際し、廃城となった。
(説明板、Wikipedia、関東の名城を歩く北関東編を参照)



【感想】
城址には本丸下に作られたトンネルから入るという変わった構造になっていますが、枡形門跡には石垣遺構も見られ、横堀が見事です。周囲をぐるっと回るとわかるのですが四方を川に囲まれており天然の濠になっていたようです。ただ現在の遺構は牧野氏時代のものなので大胡氏のころはどうであったかはわからないようです。



登城日 2014年3月29日(土)
LINK 大胡城-Wikipedia-
城主家紋 【洲 浜】
(秀郷流足利氏族)
大胡氏家紋

                      

  
探訪

※説明板より
【城址碑】
城址入口となるトンネル入口にある
【城址入口のトンネルの出口】
写真左の階段からも本丸へ行ける
【水ノ手門跡】
【水ノ手門跡】
この下には横町川が流れる
【枡形門跡】
石垣が多くみられる
【枡形門跡】
食違いになっているのが良くわかる
【二ノ丸跡】 【二ノ丸跡】 【横堀】
【横堀】
本丸と二ノ丸の間には大規模な横堀がある
【本丸の虎口と横堀】 【本丸跡】
本丸は上下に分かれ、境目の段差には石垣が見られる
【本丸下段】 【本丸跡】 【本丸上段】
奥は下段と土塁になる
【本丸上段から見た根小屋地域】
本丸の下は崖になっており、根小屋の先には荒砥川が流れる
【本丸から見た北城跡】
本丸と北城の間には大規模な堀切がある
【本丸と北城間の二重堀切】
右側は二ノ丸の横堀から続いており、左側は川が流れており天然の濠として利用していたと思われる。
【玉蔵院跡】
ここには大土塁も見ることが出来るが竹林が邪魔をして全貌が把握できない。
【玉蔵院跡北側虎口?】 【玉蔵院跡北側濠跡】
【玉蔵院跡南側虎口?】 【玉蔵院跡西側濠跡】 【玉蔵院跡南側濠跡】



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