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城名 | 上泉城 | ||
住所 | 〒371-0007 群馬県前橋市上泉町1168-1 |
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入場時間 | − |
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入場料 | − | |||
指定文化財 | 群馬県指定文化財:上泉郷蔵附上泉古文書 | |||
城郭構造 | 平城 | |||
天守構造 | 不明 | |||
築城主 | 上泉氏 | |||
築城年 | 不明 | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 上泉秀綱(後に信綱) | |||
位置 | 北緯36度23分55秒 東経139度6分33秒 |
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地図 | 1 | 本丸跡 | ||
2 | 二ノ丸跡 | |||
3 | 一ノ郭跡 | |||
4 | 二ノ郭跡 | |||
5 | 出丸跡 | |||
【歴史・沿革】 戦国時代の赤城南麓地帯は、その大半が大胡領と言われており大胡領は「大胡氏」によって領有されていた。 上泉城は、大胡城の支城として築かれ、一族の「上泉氏」が在城していた。 城域は、東西600m、南北400mに達し、県指定の「郷蔵」付近に、本丸と二ノ丸の跡が残っている。また、西林寺付近は一の郭、玉泉寺付近は出丸跡と推定されている。 城主としては上泉城4代目の上泉秀綱が有名である。 その秀綱のとき天文24年(1555)北条氏康の大胡城攻撃にあい上泉城も開城した。 【剣聖・上泉伊勢守秀綱(信綱)】 骨格雄偉で品格があり、教養が高く、また文武両道に優れた人物であったと伝えられています。上泉城開城後は、同じ上野の箕輪城・城主長野業正とその子長野業盛に仕え、武田信玄・北条氏康の大軍を相手に奮戦し、長野の16人の槍と称えられ、上野国一本槍の感謝状を長野業盛からもらったという。 箕輪城の攻防で、伊勢守の武勇を知った武田信玄は再三にわたり招請しました。しかし伊勢守は新陰流を広めたいという思いから、それを断りました。信玄は他家に仕えないことを条件に旅に出ることを許しました。この時、信玄(諱は晴信)の偏諱授与により、諱を信綱と改めたという逸話が『甲陽軍鑑』にある。 永禄6年(1563)に新陰流を普及するため上洛し、永禄7年(1564)に13代将軍足利義輝に、永禄8年(1565)、上泉伊勢守は柳生宗厳(石舟斎)に印可相伝、元亀元年(1570)には正親町天皇に新陰流兵法を披露し、剣聖の名を名実ともに不動のものとしました。その後、新陰流は尾張徳川家の御家流になるなど日本有数の剣術流派に発展しました。 晩年の信綱の足取りは不明ですが、山形上泉家によると天正5年(1577)に没したと記されています。 【感想】 城としての遺構は皆無であるが、城主であった上泉伊勢守信綱の説明が詳しく記された石碑もあるので剣聖に興味がある方や大胡城に行った際に寄ってみると良いでしょう。 |
登城日 | 2014年3月29日(土) | ||
LINK | 前橋まるごとガイド | |||
城主家紋 | 【酢漿草】 (藤原秀郷流足利氏族) 上泉氏家紋 |
※説明板より |
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【剣聖 上泉伊勢守信綱誕生の地看板】 | 【本丸跡に立つ上泉城説明板】 | 【上泉伊勢守信綱像】 生誕500年を記念して建立された。 |
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【上泉郷蔵】 天災や飢饉などの非常時に備えて麦などの穀物を蓄えることを目的として寛永8年(1796)に前橋藩の貯穀令により建てられた土蔵。 |
【上泉郷蔵】 | − |