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城名 | 長井坂城 | ||
住所 | 〒379-1101 群馬県渋川市赤城町棚下 |
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入場時間 | − |
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入場料 | − | |||
指定文化財 | 群馬県指定史跡 | |||
城郭構造 | 囲郭式崖端城 | |||
天守構造 | 不明 | |||
築城主 | 上杉謙信 | |||
築城年 | 永禄3年(1560) | |||
主な改修者 | 白井長尾氏 | |||
主な城主 | 上杉氏、真田氏、白井長尾氏、猪俣氏 | |||
位置 | 北緯36度25分11秒 東経139度9分33秒 |
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地図 | 1 | 本丸跡 | ||
2 | 二ノ丸跡 | |||
3 | 西側三ノ丸跡 | |||
4 | 東側三ノ丸跡 | |||
5 | 旧沼田街道跡 | |||
【歴史・沿革】 群馬県渋川市(旧赤城村)にあった長井坂城は、旧沼田街道の長井坂にあり、北は永井の沢の急崖、西は利根川の断崖(比高約200m)に臨む崖端城で、南北260m、東西180mほどの囲郭式で、三方を高さ2.5mの土塁によって囲まれた本郭がある戦国時代の崖端城で。永禄年間(1558〜70)に長尾景虎(のちの上杉謙信)により築城されたといわれる。 景虎は永禄3年(1560)に最初の関東出陣を行い、沼田顕泰が城主をつとめていた北条方の沼田城を攻め、顕泰を降伏させたが、その際、この長井坂城のあった場所に陣を置いた。 その後、13回とも15回ともいわれる謙信の関東出陣が行われたが、沼田城と厩橋城の中間地点にある長井坂城は、中継地点として整備された。 天正8年(1580)、沼田・吾妻を攻略した武田勝頼の武将真田昌幸が同城を占領し城兵を配置したが、天正10年(1582)、北条氏邦ら北条勢に攻め取られ、北条方の城となった。 同城は北条方の白井長尾氏により修築され、氏邦の部将の猪俣邦憲が入城し、沼田城の攻略拠点とした。 同城は武田勝頼に攻められて落城した後に廃城になったとも、天正18年(1590)の北条氏の滅亡とともに廃城になったともいわれている。 【感想】 城址の中かに旧沼田街道が突き抜けている珍しい城。その旧沼田街道が城を東西に分かる横堀の様になっている。西側三ノ丸跡と本丸跡の間は二段の横堀があり、その西側は断崖になっておりまさに崖端城ということが良くわかる。 城の下に行けばその高さを実感することがわかり、旧沼田街道はどの様に下へ下っているかも気になった。 |
登城日 | 2014年3月29日(土) | ||
LINK | TONENUMATA.COM-利根沼田の歴史- | |||
城主家紋 | 【竹に二羽飛び雀】 (藤原氏勧修寺流) 越後上杉氏家紋 |
【長井坂城址】 この場所の右脇から旧沼田街道が城内に向かって伸びている。 |
【旧沼田街道】 | 【追手跡】 |
【追手跡前の旧沼田街道】 | 【西側三ノ丸】 | 【西三ノ丸の西側断崖】 |
【西側三ノ丸の土塁】 | 【西側三ノ丸と本丸間の西側三ノ丸側横堀】 標柱は写真撮影側、堀は西側三ノ丸側と本丸側の2段(2重)構造になっている。 |
【西側三ノ丸と本丸間の西側三ノ丸側横堀と土塁】 |
【西側三ノ丸側の横矢折のある土塁】 | 【西側三ノ丸と本丸間の本丸側堀】 | 【西側三ノ丸と本丸間の本丸側横堀】 |
【本丸と二ノ丸間の旧沼田街道跡】 写真右側が本丸、左側が二ノ丸 |
【本丸と二ノ丸間の旧沼田街道跡】 | 【本丸跡と本丸土塁】 |
【本丸跡】 | 【本丸と馬出間の横堀】 | 【馬出跡】 |
【本丸と二ノ丸間の旧沼田街道跡】 森下宿と南雲宿への分岐点にもなっている。 |
【長井坂城址の搦手方向へ続く旧沼田街道跡】 | 【長井坂城址碑と説明板】 二ノ丸跡一角に建つ |
【二ノ丸跡】 | 【虎口】 | 【三ノ丸跡】 |
【三ノ丸跡からみる関越自動車道】 城址の下に関越道が通っている。 |
【虎口跡】 右側の道を進むと三ノ丸を左手方向に見ながら二ノ丸、本丸へと続いている。 |
【虎口前の横堀跡】 右側が三ノ丸跡になりこの堀の先は左に折れている。 |