城名 中山城
住所 〒377-0702
群馬県吾妻郡高山村中山3655
入場時間
入場料
指定文化財 村指定史跡
城郭構造 囲郭式平山城
天守構造 不明
築城主 北条氏邦
築城年 天正11年(1583)〜天正14年(1586)
主な改修者
主な城主 北条氏
位置 北緯36度37分30秒
東経138度57分00秒
地図 本丸跡
二ノ丸跡
三ノ丸跡
捨曲輪跡
北曲輪跡
【歴史・沿革】
天正10年(1582)6月、織田信長が謀反により急死すると、領国化されていた上野国に激震が走った。厩橋城(前橋城)にいた織田信長家臣滝川一益は、直後に勃発した神流川合戦で北条氏に破れ敗走する。これを追って信濃国に進んだ北条氏は、真田氏らを来属させ、佐久地域を押さえた。

次いで、若神子(山梨県北巨摩郡須玉町)に進み、新府城(山梨県韮崎市)に拠る徳川氏と対峙する。しかし、9月には真田氏が徳川方に転じ、北条氏は10月に徳川氏と和睦する。これにより、上野国内で真田氏と北条氏の争い が激化することになった。同12月、北条氏政・氏直父子は白井(渋川市)に進出し、合わせて軍勢を分け、北条氏邦を中山に向かわせた。

中山は真田氏が拠点とする沼田城と岩櫃城の中間に位置し、真田領国を結ぶ生命線であった。この中山攻めが、白井城主長尾憲景が進言したことで、功を奏して早々に攻略されることとなった。ここに氏邦は城普請に着手し、中山城が築城された。

その後は沼田城攻めの橋頭保となったが、天正12年1月、中山城攻めを進言し、自らも沼田攻めを期待されていた国衆白井長尾氏が、沼田境の谷中(所在不明)で真田方の高橋氏・長井氏に敗れてから、白井から利根川西岸を北上する行軍ルートには、交通上の難所を控えているため、以後の沼田攻めは利根川東岸が主流になっており、中山城も同じく、沼田城攻めの前線から一歩後退したものと思われる。
(関東の名城を歩く 北関東編抜粋)




【感想】
城址の東側より城址内に入ることが出来る。本丸にすぐに行けるのだが、本丸の周囲を囲む堀切は深く10m以上はあると思われ、堀底から眺める堀切は見事につきる。



登城日 2014年3月29日(土)
LINK
城主家紋 【三つ鱗】
(伊勢平氏流)
北条氏家紋

                      

  
探訪

※説明板より
【中山城址碑】 【中山城址】
城址東側より撮影
【二ノ丸と三ノ丸間の堀切】
【本丸と二ノ丸間の堀切】 【本丸より見た城址東側】 【本丸の城門神】
【本丸西側の堀切】 【本丸跡と土塁】 【本丸北側堀切】
【本丸西側堀切】 【本丸南側堀切】 【二ノ丸跡】
【二ノ丸跡から見た三ノ丸跡】
三ノ丸は畑になっている



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