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城名 | 平塚城(別名:豊島城) | ||
住所 | 〒114-0016 東京都北区上中里1-47-1(平塚神社) |
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入場時間 | − |
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入場料 | − | |||
指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 平山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 豊島近義 | |||
築城年 | 平安時代 | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 豊島氏、蘓坂氏 | |||
位置 | 北緯35度44分46秒 東経139度44分46秒 |
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地図 | 1 | − | ||
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【歴史・沿革】 平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが、平塚大明神並びに別当城官寺演技絵巻(北区有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館を作ります。 平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地で、義家は近義の心から饗応に深く感謝し、使っていた鎧を守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を城内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこに社を建てて安置したと伝えられます。これが本殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれています。鎌倉・室町時代の平塚城は、この城域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、文明10年(1478)1月、泰経の時代に太田道灌によって落城してしまいます。 江戸時代、上中里村出身の神医で当座検校でもあった山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官などに寄進します。貞久の忠誠心を暫くして知った家光は感激し、250万石の知行地を与え、この内の50石を朱印地として平塚明神に寄進させました。 (平塚城官寺の平塚城説明板により) 【感想】 上中里駅近くにある平塚神社が平塚城址です。駅からの道中は昔は切通であったであろうと思える坂道を上っていきます。 平塚神社境内は月極め駐車場と神社というなんとも言えないような状況ですが、いろいろ見て回ると城主を祀った祠があったりします。 入れない場所になりますが神社の裏手には遺構がありそうな感じです。 |
登城日 | 2014年4月13日(日) | ||
LINK | 平塚城-Wikipedia- | |||
城主家紋 | 【九曜】 (桓武平氏良文流) 豊島氏家紋 |
【切通し跡】 上中里駅から平塚神社へ向かう道は、切通し跡になる。 |
【平塚神社】 鳥居より手前は月極め駐車場になっている |
【平塚神社鳥居】 |
【鳥居付近より見た切通し跡】 | 【石室神社】 豊島氏の後城主となった蘓坂兵庫頭秀次を祀った神社。 |
【平塚神社・社殿】 八幡太郎義家を祀った神社。 |
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【平塚神社西側奥】 入れませんが何か遺構が残っていそうなのはこの部分でしょうか。 |
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