城名 新井城(別名:三崎要害、油壺城)
住所 〒238-0225
神奈川県三浦市三崎町小網代1024
入場時間 東京大学敷地内は通常立入禁止
道寸祭の時に限定公開があるようです。
道寸祭寺9:30〜14:00(2014年度の場合)
入場料
指定文化財
城郭構造 海城(平山城)
天守構造 なし
築城主 三浦氏
築城年 不明
主な改修者 北条氏
主な城主 三浦氏、北条氏
位置 北緯35度9分35秒
東経139度36分46秒
地図
【歴史・沿革】
神奈川県三浦市にあった海城(平山城)。三浦一族の滅亡の舞台となった城である。小綱代湾と油壺湾の間の岬にあり、三方を切り立った断崖と海で囲まれた城で、引き橋で陸とつながっていた要害だった。陸地に通ずる道は、北方約3kmの大手の引橋で、この橋をきって落とせばどこからも攻められないようになっていました。この引橋は現在も地名で残りますが、関東大震災時の隆起により往時の面影は薄らいでいます。

鎌倉時代の宝治元年(1247)、北条氏の謀略により衣笠城を本拠とした三浦氏が滅亡した後、それを継承した三浦氏一族の佐原氏が拠点として築いた城とも推定されているが、築城年代、築城者ともわかっていない。

三浦氏は三浦高継の代に足利尊氏にしたがって軍功をあげ相模三浦の領地を回復して室町時代中期には相模の有力な一族として復活した。三浦時高は扇谷上杉定正の兄高救の子・三浦義同(よしあつ)(のちに遁世し道寸を号した)を養子に迎えたが、晩年実子が生まれると、時高と義同の関係が悪化した。義同は小田原城の大森氏を頼ったが、その後再起して明応3年(1494)に養父時高を新井城に攻めて時高を討ち家督を奪った。義同は新井城に嫡子義意を置き、自身は岡崎城(平塚市〜伊勢原市)を居城にした(ただし、近年、時高と義同の間に起こった戦いは史実ではないという説が有力になってきている)。

義同は、一時期扇谷上杉氏の家宰太田道灌に従ったが、その後、山内上杉氏に属した。この頃、北条早雲が大森氏の小田原城を奪い相模に勢力を広げつつあったが、相模支配の障害となっていた三浦氏とぶつかり、永正9年(1512)から13年にわたり早雲と三浦氏は激しい攻防を繰り広げた。早雲に岡崎城、住吉城(逗子市)を攻略された義同(道寸)・義意(荒次郎)父子は新井城と三崎城(三浦市)に移って抵抗した。早雲は堅固な新井城を力攻めで攻略できないことから、玉縄城(鎌倉市)を築いて武蔵国からの援軍と兵糧を絶つ持久戦に転じた。兵糧尽きた三浦義同(道寸)・義意(荒次郎)父子は城外に打って出て討ち死にし、三浦氏は滅亡した。

以後、新井城は玉縄城の管轄下の北条氏の城となり、城代が配置された。城跡には現在、曲輪、堀切、土塁などの遺構が残っている。本丸部分は東京大学の敷地になっており一般の立ち入りはできないが、ハイキングコースからその遺構を眺めることができる。

なお、「油壺」という地名は、三浦氏滅亡時に一族が投身して湾が血で覆われたことに由来するといわれている。


【感想】
新井城の東京大学の敷地内が公開されるということで、行ったのだが前日になって東京大学の方で大幅に見学出来る場所を削減したという。そのため見られる場所もハイキングコースに毛が生えた程度で消化不良気味であった。城址碑もあるにはあるが撮影など禁止になっており残念であった。



登城日 2014年5月25日(日)
LINK 三浦市HP-三浦一族〜油壺周辺の歴史散歩〜
城主家紋 【三浦三つ引両】
(桓武平氏三浦氏流)
三浦氏家紋

                      

  
探訪
【内引橋】
二ノ丸、本丸近くの引橋跡。
【堀切】
引橋下の堀切。
【東京大学臨海実験所入口】
特別公開時のみ入れる。
【二ノ丸と本丸間の堀切】
東京大学敷地側より。
【高やぐら跡】
太鼓櫓・物見櫓の役割を果たしていたと思われる。
【本丸虎口】
高やぐらと土塁との切れ目にある。
【本丸跡】
残念ながら特別公開でもここより先には入れなかった。
【ハイキングコースにある新井城説明板】
この裏が堀切になる。
【二ノ丸と本丸間の堀切】
ハイキングコース側より。
【ハイキングコース】
昔はこの道はなかった。そのため右手は土塁ではなくそのまま海まで続く崖であった。
【油壷湾】 【荒井浜より見た新井城】
【千駄やぐら】
千駄(千頭の馬)が運べる米俵2000俵の米を備蓄できた大きな洞窟が三年間の籠城を支えた。現在は小屋が建って塞がれている。
【合戦場跡】
ここで三浦一族最後の壮絶な戦いが繰り広げられた。。
【西の曲輪(二ノ丸)跡】
【道寸の供養塔までの道】
両脇は崖になっている。
【三浦道寸の供養塔】 【胴綱海岸】
首を取られた義意(荒次郎)の胴体が綱にかかった海岸。



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