城名 岩殿城(別名:岩殿山城)
住所 〒401-0006
山梨県大月市賑岡町強瀬
入場時間
入場料
指定文化財 山梨県史跡
城郭構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主 小山田信有
築城年 天文元年(1532)
主な改修者
主な城主 小山田氏、河尻秀隆
位置 北緯35度37分17.71秒
東経138度56分59.51秒
地図 本丸
二ノ丸
三ノ丸
揚戸門跡
亀ヶ池・馬洗池
【歴史・沿革】
岩殿城は、JR大月駅からよく見える独立峰の岩山・岩殿山(標高634m)の山上に築かれていた。岩殿山は急峻な岩山で東・南・西の3面が断崖絶壁、北側も急峻な地形であるために、当時の東国の城郭の中では屈指の堅固さで知られていた城である。

戦国時代の甲斐の有力国人で、武田氏に重臣として任えた小山田氏の城。小山田氏は甲斐守護の武田氏に敵対していたが、永正6年(1509)に、郡内(今日の都留市・大月市周辺)を領有する半独立の領主の地位を保ったまま武田氏の傘下に入り、武田氏から親族並みの扱いを受け重用され、信玄の時代には武田二十四将の一員となる。

岩殿城は武田信虎の時代の天文元年(1532)に、小山田信有により築城されたといわれるが、築城者や築城時期はくわしくわかっていない。また、『甲斐国志』や『甲陽軍艦』には、小山田氏が居城としていたと記され、『勝山記』や『妙法寺記』によれば、永禄8年(1565)ごろに家督を相続した小山田信茂(信有の孫)が谷村(やむら)城(谷村館)(都留市)から岩殿山城に居城を移したとされるが、本城(居城)は、信茂の時代にも引き続き谷村城で、岩殿山城はその出城だったとする説もある。

また、この岩殿山には9世紀末ごろに天台宗の円通寺が創建され、13世紀には天台系の修験道場として栄えたが、16世紀ごろには武田・小山田両氏の支配地となった。
以来、岩殿山城は国境に近い位置にあることから甲斐からの侵攻拠点として、また武蔵の扇谷上杉氏、相模の北条氏、駿河の今川氏に対する防衛拠点として重要な城となった。

天正10年(1582)、織田信長と徳川家康の連合軍が甲斐に侵攻し、間もなく武田氏は滅亡した。このとき小山田信茂は織田方へ寝返り、新府城(韮崎市)から岩殿山城へ落ち延びようとした武田勝頼の郡内入りを阻止した。進退に窮した勝頼は引き返したが、天目山(甲州市)に追い詰められて自害した。この後、信茂は信長に帰参を求めたが不忠者として処刑されたといわれている。

武田・小山田氏の滅亡後、同城は織田信長麾下の川尻秀隆の治める城となったが、同年の本能寺の変の信長の死去後に、秀隆は一揆の混乱の中で討ち死にし、甲斐をめぐって北条氏直と争った徳川家康の城となった。その後、一時期、甲斐は豊臣氏の所領となったが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、再び、徳川氏が領有した。

江戸城を本拠とした徳川家康は危急の際の甲斐への退去を想定していたといわれ、そのため岩殿山城も要塞として存続させたが、17世紀初めに廃城となった。同城廃城後も円通寺はそのまま存続したが、明治政府の神仏分離政策により廃寺となった。

現在、城跡はふれあい公園として整備され、山頂には本丸跡が、その下には二の丸、三の丸、蔵屋敷、兵舎、番所、物見台、馬屋、揚城戸などの跡が残っているほか、
空濠、井水、帯郭、烽火台、馬場跡がある。
また、中腹の丸山公園には岩殿山ふれあい館が建っている。


【感想】
JR大月駅を通るたびに、岩殿山が見え巨大な鏡岩上の岩殿城をいつか行きたいなと思いながらもなかなか行けず、ようやく今回行くことが出来ました。登る前から上まで行けるかと思いながら何とか登りました。急な石段が幾重にも折れ、上りはかなりキツイですが、揚城戸跡を見た時には感動でした。
南物見台から生憎富士山は見ることが出来ませんでしたが気持ち良い景色を見ながら昼食をとり、城址を散策しました。二ノ丸、三ノ丸の位置がどこなのかよくわからなかったのは残念でしたが、登った甲斐はありました。


登城日 2014年9月21日(日)
LINK 八駅八山八富士トレキング〜大月・岩殿山〜
Wikipedia〜岩殿山城〜
城主家紋 【立ち沢瀉】
(桓武平氏秩父氏族)
小山田氏家紋

                      

  
探訪

※岩殿城案内図より(木の影で見づらいですが・・・)
【岩殿城遠景】
岩殿城址は、ここから見える巨大な鏡岩の上にあるためあの岩を登ることになります。標高はスカイツリーと同じ634m。
【登城口】 【冠木門】
まずはここから丸山公園を目指します。
【丸山公園までのの登城道】
整備はされているものの丸山公園までは10分程度かかります。
【岩殿山 丸山公園入口】 【四脚門と資料館】
【岩殿山ふれあい館】 【岩殿山ふれあい館と鏡岩】 【登城道】
ここから先、整備はされていますが、本格的な山道となっていきます。
【最初に見えてくる巨石】 【延々と続く登城道】 【登城道から見た鏡岩】
【柵もない登城道】
この箇所の左側は崖ですが柵もない。そして右側の山肌は崩れかけている箇所もあるので注意が必要。
【分岐点】
正面方向は、大手門跡のある場所ですが、その先の兜岩・稚児落しと呼ばれる危険な岩場がある。行かれる際は、細心の注意が必要。
【大手道】
分岐点からすぐの場所。此処から先一人では不安なので行きませんでした。
【急峻で幾重にも折れる石段】 【揚城戸跡】
第二の関門と呼ばれ巨大な自然石を利用して城門を築いていた。名前の通り戸は上げ下げし式であった。
【揚城戸跡・城内側】
【番所跡】
揚城戸の番兵の詰め所で雨露を避ける建物があったとされる。
【虎口と平場】
番所跡から上がった場所で、正面奥が頂部最西端になる。
【西物見台跡】
頂部最西端のこの場所には礫岩の大露頭があり、西物見台とも、あるいは円通寺の修験者の修行場友いわれた岩があった。風化・侵食が進み崩落の危険性が有り撤去された。
【駅跡】
南物見台下側の通路にある。
【分岐】
左が駅跡、右が南物見台跡に通じる。
【南物見台跡】
【南物見台跡】 【乃木将軍詩碑、案内図、説明板】 【南物見台からの風景】
晴天であったが、生憎富士山には雲がかかり見ることが出来まなかった。本来であればこの正面に富士山を見ることができる。
【南物見台眼下】
南物見台は、ちょうど鏡岩の真上になるため、眼下は崖となっている。
【馬場跡】
本城内で一番広い面積を有し、馬や兵士の訓練場とされ、非常時に備えていた。
【用水池(亀ヶ池・馬洗池)の指標】
【用水池(亀ヶ池・馬洗池)】
左が馬洗池、右が飲料用おして使用された亀ヶ池。
【東登山口(搦手道)の指標】 【馬場跡から見た本丸への道】
【倉屋敷跡】
武器や弾薬、食料、燃料の他生活用品などの保管されていた。
【本丸への道】
本丸との間に二ノ丸、三ノ丸と続くのだが、表示もなく開けた場所もないのでよくわからなかった。
【本丸・烽火台跡】
三箇所にある物見台を統合した本陣で防衛や進攻の指令を発した場所。
今は、電波塔が置かれている。
【電波塔脇の通路】
この通路から東端部の方に行くことができる。
【堀切】
本丸すぐの東側にある堀切。細い土橋で砂岩化しているので滑らないように注意が必要。両側のすぐ下は崖となる。
【堀切】
本丸の東側から進入する敵の備え、また日常の生活通路として利用していた。
【東物見台跡】
この東側先にはもうひとつの堀切がある。
【帰路の登城道で姿を現した富士山】 【麓から見た兜岩・稚児落し】
麓から見ても岩場だらけだということがわかる。この道を落ち延びていくのは困難であったであろう。



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