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城名 北ノ庄城址(現:北ノ庄城址・柴田神社)
住所 〒910-0006
福井県福井市中央1-21-17
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造
天守構造 9層の天守(非現存)
築城主 柴田勝家
築城年 天正3年(1575年)
主な改修者
主な城主 柴田氏
位置 北緯36度03分36秒
東経136度13分11秒
地図 お市の方像
柴田勝家像
石垣跡
【概要】
「北の庄」という地名は、延長2年(924)足羽川北岸の伊勢神宮の荘園であった「足羽御厨」が後の「足羽北庄」に由来するといわれている。

一向一揆を壊滅させた直後の天正3年(1575)8月、織田信長から越前49万石に封ぜられた柴田勝家は、足羽川と吉野川との合流点に、北ノ庄城を築いたといわれている。現在の柴田神社付近が本丸と伝えられる。
詳細は不明であるが、天守閣は九層を持つ平城で、屋根は悉く立派な石で葺いてあり、その色により一層美観を増した壮大な城であったといわれている。
勝家は、城下繁栄のため戦国朝倉氏の居城があった一乗谷から寺社や民家を北ノ庄へ移転させるなどに努めた。足羽川に架かる橋(九十九橋)を半石半木の橋に架設したと言われる。柴田勝家は、まちづくりにも創意工夫を施し、今日の福井市の基礎を築いたと言われる。

勝家の運命が変わったのは、天正10(1582)年、本能寺の変で、主君信長が横死してからであった。
山崎で明智光秀を討った羽柴秀吉が勢力を伸ばし、勝家と対立した。織田家の後継者を決める清州会議で、勝家は信長の三男信孝を次期当主として担いだが、信長の摘孫三法師を担いだ秀吉に主導権を奪われる事となった。
勝家は信長の妹お市を妻として迎えると、反秀吉勢力を結集し、天正11(1583)年、近江賤ヶ岳で戦端を開いたが敗北、北ノ庄城に退くと大いに戦い、妻お市共々滅び去った。

北ノ庄城は柴田勝家が築城した城で、福井城の前身であるが、この2つの城の関係については、北の庄城を改築した物が福井城であるという説と、北の庄城の跡地に福井城が新たに築城されたという説の二通りの説があるという、現状では北の庄城の調査がほとんど進んでおらずどちらの説とも肯定、否定する事が出来ていない状態である。

柴田勝家の辞世の句「夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」
お市の方の辞世の句「さらぬだに うちぬる程も 夏の夜の 別れをさそう ほととぎすかな」

登城日 2008年9月28日(日)
LINK 柴田神社-Wikipedia
城主家紋 【二つ雁金】
(清和源氏足利氏流斯波氏族)
柴田家家紋

                      

探訪
【柴田神社鳥居】 【お市の方像】 【柴田神社】
【石垣跡】
北ノ庄城の石垣の一部。
【北ノ庄城址・柴田公園】 【北ノ庄城址・柴田公園全景】
【柴田勝家公像】 【天守イメージ図】
秀吉の小早川隆景に戦況を知らせる書簡によると、「柴田越州北庄居城事、城中に石蔵を高く築き、九重の天守を上げ候」と書いている。青光りする笏谷石で九層という壮大な天守閣が築かれていたことがわかる。
【勝家・お市の方と三人の娘】
この三人の娘は浅井長政との間に生まれた子です。
長女:茶々(後の秀吉側室淀殿)
次女:お初(後の京極高次の正室)
三女:お江与(後の徳川秀忠正室)、家光の母
不思議なもので浅井家は滅びても、浅井家の血は天下をとったことになります。




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