城名 岡崎城(別名:竜城、竜ヶ城)
住所 〒444-0052
愛知県岡崎市康生町561・岡崎公園内
入場時間 午前9時〜午後5時(入館は4時30分まで)
休館日:年末(12月29日〜12月31日)
入場料 岡崎城のみ 大人300円、小人150円
指定文化財 岡崎市指定史跡
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 複合連結式望楼型3重3階(1617年築・非現存)
復興3層5階(1959年(昭和34年)再・鉄筋コンクリート造)
築城主 西郷頼嗣(稠頼)
築城年 康正元年(1455)頃
主な改修者 松平清康、田中吉政、本田忠利
主な城主 西郷氏、松平氏、田中氏、本多氏、水野氏
位置 北緯34度57分22.71秒
東経137度9分31.7秒
100名城
スタンプ
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設置場所
天守一階料金所窓口
【概要】
岡崎城の起源は15世紀前半まで遡ります。明大寺の地に西郷頼嗣(稠頼)によって築城されたのがそのはじまりです。その後、享禄3年(1530)に松平清康(家康の祖父)が現在の位置に移して以来、ここが岡崎城と称されるようになりました。
 天文11年(1542)12月26日、徳川家康は、ここ岡崎城内で誕生しました。家康は、6歳で織田信秀(信長の父)、8歳で今川義元の人質となり、少年期を他国で過ごしましたが、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したことを契機に自立しました。ときに19歳。以来、岡崎城を拠点に天下統一という偉業への基礎を固めました。
元亀元年(1570)、家康は本拠を遠江浜松(静岡県浜松市)に移し、嫡男信康を岡崎城主としました。天正7年(1579)に信康が自刃したあとは、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代としました。天正18年(1590)に家康が秀吉によって関東に移されると、秀吉の家臣田中吉政が城主となりますが、家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名にここを守らせました。
 江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統)、水野氏、松平(松井)氏、本多氏(忠勝系統)と、家格の高い譜代大名が城主となりました。石高こそ5万石前後と少なかったですが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えられます。西郷氏が築いた当初の岡崎城は、砦のようなもので、城域も本丸程度であっただろうと考えられますが、家康の頃までには近世の城郭としての原型ができあがりました。田中吉政は、大規模な城郭の整備拡張を行い、文禄元年(1592)に、城の東・北・西に総延長4.7キロに及ぶ総堀をつくりました。また、元和3年(1617)本多康紀のときは、三層三階地下一階で、東に井戸櫓、南に附櫓をもつ複合天守閣が建てられました。

【感想】
二度目に訪れた時には木々の伐採などもされ以前来た時よりも見えなかったところが見える様になっていました。東曲輪には櫓や土塀も復元され、より城らしくなってきています。前回見落としていた場所も見られたのは良かった。

登城日 一回目:2008年10月12日(日)
二回目:2023年3月21日(火)
LINK 岡崎おでかけナビ〜岡崎城〜
岡崎市HP〜岡崎公園・岡崎城〜
岡崎城-Wikipedia
城主家紋 丸に一枚鷹の羽
(藤原姓菊池氏支族)
西郷家家紋
【左三つ巴】
(橘氏後裔?)
田中家家紋

                      

【大手門】(表面) 【大手門】(裏面) 【ニ之丸井戸跡】
発掘中
【本多忠勝像】
思ってた以上に小さいですw
【徳川家康像】
三方ヶ原合戦の際、武田軍から辛うじて逃げ帰った際の様子を忘れないよう絵師に描かせた絵を元に石像にしたもの。
【徳川家康像】
【ニ之丸能楽堂】 【ニ之丸能楽堂】 【東照公産湯の井戸】
【青海堀】 【空堀】 【天守】
【家康公遺言碑】 【龍の井】
岡崎城竣成の日に現れた龍神によってもたらされた井戸で、吉兆のたびに龍神が現れ、この井戸の水が噴出した龍神に注いだと伝えられ、出世開運の井として崇められてきました。
【天守最上階からの南側眺望】
【岡崎城全体模型】 【五万石ふじ】
【神橋】
【南東側堀】 【風呂谷跡】 【石垣と登城口】
【天守】 【廊下橋】
探訪〜2023年3月21日(火)〜
【伊賀川越しの岡崎城】 【龍城堀】 【月見櫓下石垣】
【風呂谷曲輪跡】
本丸南側に位置する幅の狭い曲輪。
【本丸登城道】
この上に風呂谷門跡がある。
【龍城神社越しの天守】
【天守】 【青海堀】 【青海堀越の天守】
【青海堀越の天守】 【土塀跡】 【青海堀と天守・廊下橋跡】
【持仏堂曲輪跡】
本丸北側に位置し、名称は徳川家康が所持した阿弥陀仏を安置した堂があったことに由来します。
【廊下橋跡】
持仏堂曲輪と天守台を繋ぐ橋で、大正9年(1920)に現在のアーチ型石橋に改修されていますが、江戸時代は屋根付きの廊下橋が架けられていました。
【持仏堂曲輪から見た天守】
【持仏堂曲輪の竹千代像と家康公像】 【青海堀】 【持仏堂曲輪土塁】
【持仏堂曲輪北側堀(青海堀)と二の丸石垣】 【太鼓門跡】
二の丸から持仏堂曲輪に通じる櫓門。江戸時代には城下に時を知らせる太鼓が置かれてたことから太鼓門と呼ばれています。岡崎城下の出入口(籠田総門、松葉総門)の開閉時刻を知らせるため、毎日この場所で太鼓を打っていました。
【太鼓門跡】
【持仏堂曲輪北側堀(青海堀)】 【徳川家康公像】 【本田忠勝公像】
【二の丸から見た持仏堂曲輪石垣と天守】 【大手門】 【東曲輪・東隅櫓】
平成22年(2010)に再建。この櫓は菅生曲輪から二の丸へと通じる経路「南切通し」に侵入した敵に対して横矢が掛かる構造となっています。
【東曲輪】
二の丸の東に位置し、「東丸」とも呼ばれ、二の丸に対する防御機能を担っていました。
【土塀】 【二の丸石垣】
【菅生曲輪から見た東曲輪(東隅櫓と土塀)】 【東隅櫓】 【東隅櫓と南切通し】
【菅生曲輪から見た東曲輪(東隅櫓と土塀)】 【堀越に見た隠居曲輪跡】 【龍城堀】
【隠居曲輪跡】
本丸東側に位置し、本丸の東側と南側に対する防御機能を担う馬蹄形の曲輪で、菅生曲輪と龍城堀で隔てられていました。龍城堀に面する石垣は何度も積み直しが行なわれた形跡が残ります。
【龍城堀】 【辰巳櫓台下石垣】
辰巳櫓は名前のとおり、天守から辰巳(東南)の方角に位置します。城内で最も完成度の高い石垣で、大きさや形が整えられた石材が布積みで積まれています。特に隅角部の算木積みは精巧に加工された石材を使用し、稜線は直線になるように「江戸切り」で仕上げられています。
【持仏堂曲輪腰巻石垣】
江戸時代前期に構築された石垣で、後世の改修を受けることなく現在まで残る貴重な石垣です。
大きさや形が整えられた石材が布積みに近い積み方で築かれています。
【東照公産湯の井戸】 【西側を流れる伊賀川】




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