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城名 桑名城(別名:扇城、旭城)
住所 〒511-0032
三重県桑名市吉之丸5-1
入場時間 蟠龍櫓
午前10時〜午後3時
休館日:月曜日(ただし、月曜日が祝日の場合はその翌日)
   12月26日〜1月5日
入場料 無料
指定文化財 県指定文化財
城郭構造 梯郭式平城
天守構造 複合式層塔型4重6階(1635年築 非現存)
築城主 本多忠勝
築城年 慶長6年(1601)
主な改修者 松平(久松)定勝
主な城主 本多氏、松平氏
位置 北緯35度3分52.65秒
東経136度41分55.4秒
地図 天守台跡
本丸跡
二の丸跡
三の丸跡
蟠龍櫓
【概要】
戦国時代、この付近には、伊藤氏が支配する東城と呼ばれる城がありました。戦国末期、桑名地方は織田信長に平定され信長の家臣滝川一益の支配を受けました。豊臣秀吉の時代には、一柳右近や氏家行広が治めました。
桑名に本格的な城郭が築かれたのは慶長6年(1601)です。徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、徳川四天王の一人で腹心の本多忠勝を桑名に配置しました。忠勝は東城のあったところを中心に縄張りを行い、大山田川・町屋川の流れを変えて外堀に利用し、町の守りとしました。忠勝の行った街づくりを「慶長の町割り」と呼びます。
桑名城は揖斐川を利用した水域で、城内から船で川に出ることができました。天守閣は四重六層の勇壮なものでしたが元禄14年(1701)の大火で焼失し、以後は再建されませんでした。門や櫓の数は多く、享和3年(1803)の記録には、本門や路地門などを合わせて63ヵ所、櫓は95ヵ所とあります。
しかし、幕末戊辰の役(1868)の時、桑名藩は旧幕府方に付き、藩主松平定敬は東北地方を転戦し、最後は五稜郭で降伏し、無血開城して市内は兵火を免れました。新政府軍は天守閣の代わりとなっていた三重の辰巳櫓を焼き払い、桑名城落城の印としました。その後、桑名城の石垣は取り払われ、四日市築港の資材とされました。

【感想】
当時の面影はあまりありませんが、曲輪ごとに橋が掛けられ水城の様子は残っている。唯一現存する三の丸の石垣は見逃せない。
登城日 2009年9月19日(土)
LINK 桑名市公式HP
桑名城-Wikipedia
城主家紋 【立ち葵】
(藤原北家兼通流)
本多家家紋
【徳川葵】
徳川家家紋

                      

探訪
【三の丸堀の石垣】
桑名城城壁の一部で、川口町揖斐川に面する川口樋門から南大手橋に至る延長約500mが現存し、市の文化財に指定されています。
【三の丸樋門】
三の丸堀がここを通り揖斐川につながっている。

【三の丸樋門】
【蟠龍櫓】
「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとしても広く用いられています。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられています。
【蟠龍櫓】 【蟠龍】
櫓内に展示。
【七里の渡】
熱田・宮の渡しから海上七里を船に乗り、桑名の渡しに着いたことから「七里の渡」と呼ばれています。当時は、東海道の42番目の宿場町として大賑わいを見せていました。ここにある大鳥居は、これより伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と称され、伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられています。
【三の丸跡】 【本多忠勝公像】
三の丸入口付近に建つ。
【二の丸堀】 【二の丸跡】 【吉之丸堀】
【辰巳櫓跡】
本丸の東南角にあり、三重櫓であった。元禄十四年(1701)天守閣が焼失し、再建されなかったので、以後はこの辰巳櫓が桑名城のシンボル的存在であった。そのため、明治維新のとき、降伏のしるしとして新政府軍に焼き払われた。
【辰巳櫓上に置かれた大砲】
由来などは不詳。
【神戸櫓跡】
戦国時代、この付近には伊藤武左衛門が治める東城があったとされる。織田信長が伊勢侵攻時廃城になったが、文禄の頃(1592〜1596)一柳直盛が城主となると城郭が築かれ、その時伊勢神戸城の天守閣を移したといわれている。
江戸時代、初代藩主本多忠勝は城を拡張し、本格的な近世城郭を築いたが、神戸城の天守閣は櫓としてそのまま残され「神戸櫓」と呼ばれた。
【本丸跡】 【鎮国守国神社】
天明4年(1784)白河(現福島県白河市)城内に松平定綱(鎮国公)を祀ったのが始まり。文政6年(1823)白河から桑名へ移封にともない桑名城本丸に移った。
【天守台跡】
本丸北東部に位置する。石垣は当時のものではない。元禄14年(1701)に天守閣は焼失以来再建されていない。
【天守台跡】 【天守台石垣】




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