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城名 亀山城(別名:粉蝶城)
住所 〒519-0152
三重県亀山市本丸町
入場時間
入場料 無料
指定文化財 多聞櫓(県指定文化財)
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不明
築城主 関実忠
築城年 文永2年(1265)
主な改修者 岡本宗憲、本多俊次
主な城主 関氏、岡本氏、本多氏、石川氏ほか
位置 北緯34度51分22.13秒
東経136度27分2.13秒
地図 多聞櫓
青木門跡
京口門跡
大手門跡
江戸口門跡
【概要】
伊勢亀山城は、文永2年(1265)に関実忠が若山の地に築いたと伝えられます。中世の亀山に勢力を誇った関氏の居城で、現在の場所に16世紀中ごろまでには移っていたと考えられます。天正18年(1590)、岡本宗憲によって天守を築造するなど修築を行い、本多俊次が寛永13年(1636)から3ヵ年を掛けて行った大改修によってほぼ現在の城地が確定しました。東海道の要衝ということもあって、城主はその多くが譜代大名で、延享元年(1744)に石川総慶が入城後は、明治まで石川家が城主を務めました。
なお、丹波亀山城(京都府亀岡市)の天守を壊すように命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊したと伝えられ、以後天守は再建されませんでした。
明治6年(1873)の廃城令により城内の建造物はその大部分が取り壊されましたが、現在は本丸東南隅の多聞櫓と石垣(県史跡)、外堀、二の丸から西出丸の北側の土居が良好な状態で残っています。
また、発掘調査により発見された二の丸北埋門と帯曲輪が復元整備されています。

【感想】
訪れた日、隣接する小学校で運動会が行われていたため、天守台の周り二の丸までが場所取りされていて自由に見ることができなかった。そのため復原された所を見ることができなかったのが心残りである。
その代わり、西の丸方面の亀山宿などを見れたのは良かった。
登城日 2009年9月19日(土)
LINK 鈴鹿タウンガイド
亀山城(伊勢国)-Wikipedia
城主家紋 【揚羽蝶】
(桓武平氏維盛流)
関家家紋
【立ち葵】
(藤原北家兼通流)
本多家家紋

                      

探訪
【青木門跡】
西の丸の西南に位置する門で枡形を形成していた。
【加藤家屋敷跡】
西の丸青木門近くにある。

【長屋門】
加藤家屋敷の長屋門。
【土蔵】
加藤家屋敷の土蔵。
【京口門跡】
亀山城下の西の入口です。門と番所を構え、その壮麗な姿から「亀山に過ぎたるもの二つあり伊勢屋ソテツに京口御門」と謡われました。歌川広重などの浮世絵では大半がこの京口門が書かれています。
【往時の京口門付近】
【天守台と多聞櫓】
江戸時代後期の築造 (初代多門櫓は1633年築)。三重県下で唯一、江戸時代より現地で残っている城郭建造物。しかし、原形をとどめているとは言えず、下見板も明治以降に取り付けられたもので、本来は真っ白な多門櫓だった。
【亀山城址碑】 【天守台石段】
【多聞櫓】 【天守台】 【楠門跡】
【大久保神官邸宅門】
本丸内に移築された門。
【亀山演舞場】
本丸内に移築された。
【明治天皇亀山行在所の建物】
【崩れた天守台石垣】
平成19年4月15日発生した地震(震度5)により亀山城多聞櫓石垣が高さ4.5m、幅2mに渡って崩落した。
この崩落個所は、本来石垣ではなく土居であった。
昭和46年にこの個所が大雨で崩落したため、翌年に旧来の石垣とつなげて石垣として復興した部分である。
【天守台石垣】 【亀山演舞場の前に建てられた土塀】
【多聞櫓と石垣】 【多聞櫓と石垣】 【東三之丸跡】
【高札場跡】
亀山錠大手門前一帯は、宿の中心的な位置となり、高札場・本陣・脇本陣などの主要施設が集中していた。
【大手門跡】 【往時の大手門】
大手門は東海道に直面する亀山城の正門として位置づけられる門である。大手門櫓と大手脇櫓から構成された枡形門で、一の門が省略されたものとなっている。
【江戸口門跡】
江戸時代前期においてはこの市が亀山城下東端と認識されていた。
【石坂門跡】
西の丸から二の丸へ通じる枡形門で、櫓門の規模は三間十間高さ四間であった。
【石川兄弟亀山敵討遺跡碑】
観光〜亀山宿〜
【東海道亀山宿碑】
【旧舘家住宅(枡屋)】
枡屋は幕末から大正にかけて呉服商を営んでいた大店で、現在の主屋は明治6年(1873)に建てられました。亀山宿を代表する商家建築として平成19年に市指定文化財に指定されています。
【福泉寺山門】
福泉寺は、この地域有数の古刹で、往古は天台宗であったが十五世紀後半に真宗高田派に改宗した。この門は、正面軒唐破風付入母屋造、本瓦葺、一間一戸の楼門で棟札などから寛政7年(1795)の築造であることが明らかとなっている。




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