城名 津城(別名:安濃津城)
住所 〒514-0033
三重県津市丸之内
入場時間
入場料 無料
指定文化財 三重県史跡
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 5重(織田期)非現存
築城主 細野藤敦
築城年 永禄年間(1558〜1570年)
主な改修者 織田信包、藤堂高虎
主な城主 細野氏、織田氏、富田氏、藤堂氏
位置 北緯34度43分3.96秒
東経136度30分27.57秒
【概要】
津城の起源は戦国時代の永禄年間(1558〜1569)に、長野氏の一族の細野藤敦が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたことにはじまる。
永禄11年(1568)織田信長の伊勢侵攻により織田掃部頭(津田一安)が入城、翌年には、織田信長の弟の織田信包が入城した。天正8年(1580)に護送の天守閣が完成し、それまで柳山あたりにあった町屋が移されて城下町が造られた。
その後、富田氏が城主となり、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの前哨戦で西軍の攻撃を受け、津の町は戦火にあい、荒廃した。
慶長13年(1608)に藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、本丸の北側を広げて石垣を高くして、両端に櫓を新築したり内堀・外堀ともに整備したりするなど大改修を行った。そして、城を中心に北・西・南に武家屋敷を、東には町屋を置き、町外れを通っていた伊勢街道を城下町に引き入れ街の発展に努めた。
また、城下町の東の端に堀川を堀り、船を入れて商業発展に利用するとともに、城下の外側の守りとした。堀川の外側には寺院を配置し、万一の場合の防御の最前線とした。西側の武家屋敷の西一帯は湿田で、ここに町屋を立てることを禁止し、万一の場合と火災に備えた。

【感想】
西の丸、本丸ととも石垣に囲まれた曲輪となっており堅固に見えるが当時と違った縄張りになってしまっているのが残念である。
100名城
スタンプ
スタンプ
設置場所
高山神社社務所(9時〜16時)
・津まんなかガイド詰所
 (土曜日・日曜日・祝日の9時30分〜16時)
登城日 一回目:2009年9月19日(土)
二回目:2019年7月15日(月)
LINK レッ津ゴ〜旅ガイド-津城跡-
津うrip-県指定史跡 津城跡-
津城-Wikipedia
城主家紋 【三つ引両】
(伊勢長野工藤氏庶流)
細野家家紋
【織田木瓜】
織田家家紋
【蔦】
(藤原氏)
藤堂家家紋

                      

探訪
【北側堀】 【西側堀】 【西の丸虎口付近の堀】
高虎特有の犬走りが巡っています。
【西の丸枡形虎口】
西の丸南西隅にあたり、ここには玉櫓と二階門があった。
【枡形虎口内の井戸跡】 【西の丸内側より見た枡形虎口】
【有造館の入徳門】
藩校である有造館の講堂正門を西の丸内に移築保存している。本来の場所は現在のNTT三重支店あたりにあった。
【西の丸跡】
現在は日本庭園となっている。現在は西の丸と本丸に境がなくなってしまっているが、かつては土橋でつながりそこには西の鉄門があった。
【西の丸からみた北側堀】
このくびれた部分が本来は土橋だったところか?
【東御門枡形跡】 【本丸三重櫓(模擬)】
この場所は本来、丑寅三重櫓続多聞櫓のあった場所で外観も史実に沿ったものでない。
【本丸三重櫓(模擬)】
【丑寅三重櫓跡の東側石垣】 【丑寅三重櫓跡の東側石垣】
下方の石にはひびが大きく入っているものが何点か見られた。
【丑寅三重櫓跡の東側石垣】
【本丸三重櫓(模擬)】 【本丸戌亥三重櫓跡】 【本丸戌亥三重櫓の石垣】
【戌亥三重櫓跡より見た西の丸】 【本丸跡】 【藤堂高虎公像】
本丸の南側に建つ。
【天守台跡】 【天守台跡】 【天守台石垣】
階段状になっているのは、ただたんに出てきてしまったものかは不明。(上まで続いてはいない)
【本丸埋門跡】
本丸南側にあり、左側は天守台へと続いている。
【天守台上の様子】
登れなかったため隣接する社会福祉センターの外側階段より撮影。
【伊賀櫓跡の石垣】




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