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城名 田原城(別名:巴江城)
住所 〒441-3421
愛知県田原市田原町巴江11-1
入場時間
入場料 無料
指定文化財 田原市史跡
城郭構造 梯郭式平城
天守構造 なし
築城主 戸田宗光
築城年 文明12年(1480)
主な改修者 池田輝政
主な城主 戸田氏、伊木氏、三宅氏
位置 北緯34度40分24.58秒
東経137度16分11.02秒
地図 桜門
二の丸櫓
本丸跡
報民倉跡
惣門跡
【概要】
田原城は、戦国時代初期の文明12年(1480)に、戸田弾正左衛門尉宗光によって築城されました。戸田氏は5代68年間、田原城を拠点とし、全盛時には、全三河湾を制覇しました。
その後、戦国武将が覇権を競う争乱の世、田原城も例外ではなく、今川氏・武田氏・松平氏(徳川氏)らの激しい攻防にさらされることとなりました。初代・戸田宗光から数えて五代目の堯光の時代に、今川方に送られる途中の松平竹千代(徳川家康)を奪って、織田方に送った事件がありました。この事件に怒った今川義元は田原城を攻め、激戦ののち落城。4代・宗光と5代・堯光は共に討ち死に。この時、宗光の弟・光忠は宗光の首を抱いて、我が子・忠次と共に城を脱出。山越しに落ち延びて、野田村の西圓寺にたどり着き、住職に首を預けて宗光の供養を頼みました。
落城により城主は今川氏にとって替わり、その後、今川氏の城代が四代続きましたが、今度は永禄8年(1565)徳川家康が攻めて落城。田原城は徳川方の所有となりました。徳川方の4人目の城主に、伊豆の下田から戸田氏(四代宗光の弟・光忠の孫・尊次)が国替えになり、城主として返り咲きました。戸田氏が三代続いた後、寛文4年(1664)三宅家に替わり、明治まで実に12代、二百年の間三宅家が藩主として続くことになりました。
廃藩置県後の明治5年(1872)、田原城の建物一切が、解体撤去され、田原城はその歴史を閉じました。

【感想】
曲輪などは昔ながらの雰囲気は味わえますが、せっかく昔の写真等があるにもかかわらず昔と違う再建がされているのは疑問であった。
登城日 2009年11月22日(日)
LINK 田原市観光ガイド
田原城-Wikipedia
城主家紋 【六つ星】
(北家藤原氏流)
戸田家家紋
【輪宝】
(児島高徳後裔)
三宅家家紋

                      

探訪
【櫓時計】
【袖池】
三の丸堀。
【桜門】
袖堀より見た桜門。
【桜門】
【拆池】
二の丸堀。
【二の丸櫓】
【二の丸櫓】
本来は下見板張りであった。
【護国神社】
三の丸跡に建つ。
【渡辺崋山碑】
【村上範致碑】 【空堀】
本丸と三の丸の間にある。
【巴江神社】
本丸跡に建つ。
【空堀】
二の丸と本丸の間にある。こちらは遊歩道として駐車場につながっている。
【井戸跡】 【田原市博物館】
崋山自刃の刀、遺書、その他関係の書画、遺品等の重要文化財を通して崋山の生涯から没後までを、わかりやすく紹介しています。
【崋山会館と崋山神社】
出曲輪跡に建つ。
【報民倉跡】
天保6(1835)年に田原藩によって一の御倉、二の御倉の二棟が完成しました。領民の勤労奉仕によって建てられた義倉であり、天保7,8年の飢饉では、一人の餓死者も出すこともなく、翌9年田原藩は、幕府から全国で唯一表彰されました。
【成章館跡】
藩校であった成章館の跡で現在は田原中部小学校が建っている。

【平山邸跡】
田原藩大目付、平山郷右衛門の旧邸跡。渡辺崋山の祖父、父の生家。
【外郭石垣】 【大手通り】
【惣門跡】
左にかすかに写っている石垣が惣門の石垣。しかし惣門の東側しか残っていない。
【田原市報民倉】
大手公園内、惣門跡付近に建つ。
現代版の報民倉で災害時の備蓄倉庫になっている。
【田原市報民倉】




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