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※目印は大体の位置を示しています。
城名 長篠城
住所 〒441-1634
愛知県新城市長篠字市場22-1
入場時間 長篠城址史跡保存館
開館時間:御前9時〜午後5時(入館は午後4時30分)
休館日:毎週火曜日、12月29日〜1月3日
入場料 長篠城址史跡保存館
高校生以上:210円、小・中学生:100円
設楽ヶ原歴史資料館との共通券
高校生以上:400円、小・中学生:150円
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 菅沼元成
築城年 永正5年(1508年)
主な改修者 菅沼信昌
主な城主 菅沼氏、奥平氏
位置 北緯34度55分22.14秒
東経137度33分35.45秒
地図 鳥居強右衛門磔刑碑
本丸
搦手門跡
大手門跡
馬場美濃守信房の墓
100名城
スタンプ

【概要】
長篠城は、豊川と宇連川が合流する断崖上にあり、本丸、帯郭、野牛郭、巴郭、瓢郭、弾正郭等があります。戦国時代末期の城であるため、現在、建物は残っておりませんが、一部残っている内堀と土塁が城の東側を守り、後方は合流する2つの川が堀として巧みに利用されている様子から、ここが天然の要害であったことがわかります。
長篠城は、永正5年(1508)、菅沼元成が築城し、天正3年(1575)、徳川家康が奥平貞昌(信昌)を城主に任命し、城を守らせました。もとよりこの城は、愛知県から長野県、静岡県北部、さらに山梨県へ通じる道中にあり、戦国時代、武田と徳川が拠点として奪いあった城でした。

【長篠の戦い】
信玄は死に臨み、「3年間は戦いを止めて国力をつけよ」と遺言しましたが、勝頼はそれを無視、天正2(1574)年、美濃明智城を取り、遠州高天神城の攻略に成功、自信を強めました。
天正3(1575)年5月8日、勝頼は1万5千人を率いて長篠城を囲みました。これに対して奥平貞昌は500人の城兵で城に立て籠り、対抗しました。
武田軍は8日から14日にかけて猛然と攻め掛かりました。しかし城はなかなか落ちません。そこで武田軍は城の周囲に柵を作り、川に鳴子網を張って厳しく見張り、兵糧攻めの作戦を取りました。
5月14日、強右衛門は城主貞昌の命令を受け、夜半、城を抜け出し豊川を下り、雁峰山で「脱出成功」の狼煙を上げました。そして岡崎城に赴き、家康と信長に城の様子を伝え援軍を頼みました。
強右衛門は役目を果たし舞い戻りましたが、武田軍に怪しまれ捕われました。そして武田本陣で「援軍来ず、早く開城を」と叫べ、さすれば命を援け恩賞を与えようと誘われました。彼は、一旦承諾の態度をとり城の近くに立ちました。そして「援軍は野田に着いた、安心して城を守れ」と絶叫しました。武田軍は怒って彼を磔刑にしました。

【設楽ヶ原の戦い】
織田・徳川連合軍3万8千は3千丁の鉄砲を準備し5月18日、設楽原に到着しました。そして連吾川の西側に沿って3重の馬防ぎの柵と堀、土塁を構築しました。
19日、勝頼は医王寺山の本陣で軍議を開きました。老臣馬場美濃守信房らは決戦を避けるよう主張しましたが採り上げず決戦を決定し、豊川を渡って設楽原に進出しました。
これに先立って19日の夜、馬場、山県、内藤、土屋ら4人の武将は大通寺裏の泉に集まり、水杯で決死を誓い、最期の別れを惜しみました。
家康の重臣、酒井忠次は5月21日の夜明けに鳶が巣山の武田軍の砦を急襲し戦闘の火蓋を切りました。不敗を誇る武田軍は、騎馬戦術をもって設楽原に突き進んで行きました。織田・徳川連合軍は武田軍を馬防ぎの柵際に引き寄せ、3千丁の火縄銃を代わる代わる発射しました。
はじめ優勢だった武田軍も信長の新戦術の前に諸将は相次いで倒れ、昼頃には敗色濃厚となりました。これを見た馬場信房は残兵80人を率い、勝頼を援護して殿戦を務め、勝頼が寒狭川の左岸に渡ったのを見とどけて、織田方の塙九郎左衛門直政の従兵、川井三十郎に首を授けました。勝頼を援護するために踏み止まって戦死した者は、川窪備後詮秋、望月甚八郎重氏、小幡備前直員、小山田十郎兵衛盛昌、土屋備前直規、酒依清三郎昌光等、数百騎でした。
この戦いの戦死者は武田軍1万、織田・徳川連合軍6千といい、戦闘は壮絶であったようです。

※この戦いでの武田の騎馬軍団と織田の鉄砲三段構えについてはいろいろな説があります。設楽ヶ原合戦城で見つかった弾丸の数などから見ると三段構えはなかったように思えますし、当時の軍団構成から考えて騎馬軍団も考えにくいです。騎馬武者一人に徒歩武者が十数名着くのが普通ですから。

【感想】
長篠城だけでは見る場所も少ないが、長篠合戦に纏わる場所が周辺に数多くあるので時間をかけてみるのが良いと思います。少なくても鳥居強右衛門のお墓と磔刑場所は見る場所があります。そして武田好きな人は大通寺の盃井戸と馬場美濃守信房のお墓には行って欲しいです。

スタンプ
設置場所
長篠城址史跡保存館
登城日 2009年11月23日(月)
 LINK 新城市HP
長篠城-Wikipedia
城主家紋 【六つ釘抜】
(清和源氏土岐氏流)
菅沼家家紋
【軍配団扇】
(村上源氏赤松氏流)
奥平家家紋

                      

 探訪

※案内板、加筆あり
【新昌寺】
鳥居強右衛門の墓がある。実際には鳥居家の菩提寺が甘泉寺になったため遺骨などはこちらにはありません。
寺の入口には「鳥居強右衛門勝商の碑」となっています。
【鳥居強右衛門の墓】
寺の造成中か分りませんが、行った時にはこの有様です。もう少し考えていただければいいのですが…
残念です。
【牛淵橋へ向かう道より長篠城址と鳥居強右衛門磔刑場所】
遠くに見える白い四角いのが看板です。
【鳥居強右衛門磔刑の碑】
この場所で磔刑にされた鳥居強右衛門、ここから当時は本丸が見えたことでしょう。
仲間を救うために命を張った彼の生きざまは武田方にも讃えられ右上の磔刑の絵を自分の旗にした人もいました。
【鳥居強右衛門磔刑の図】
辞世「我が君の命にかわる玉の緒を何に厭ひけん武士の道」
【鳴子網架設地】
豊川の西岸に仕掛けられた鳴子網は豊川の中にも設置された。この網を掻い潜って援軍を呼びに行った鳥居強右衛門はやはりすごいです。
【長篠城址】
牛淵橋より撮影。
左が寒狭川(現豊川)、右は宇連川。左に見える鉄橋はJR飯田線。
【橋の下にいた野生のいのしし】
長篠城址とは反対側の下に3頭いました。
仕草がかわいいかったです。正面で出会わなくってよかったです。
【搦手門跡】
JR長篠駅方面から長篠城を目指して歩いて行くとあります。
【瓢曲輪跡】 【糧庫跡・林藤太夫高英屋敷跡】
二の丸跡になる。
【さかさ桑】
長篠の落武者(武田勝頼)がさした杖から桑の芽が出たが下方に向かってだけ伸びるので「さかさ桑」と名ずけられた。近年それが枯れたので、新しいものをここに植えた。
【帯郭跡】 【内堀跡】 【長篠城址碑】
【本丸土塁】
右は林高英頌徳碑。
【本丸土塁上の城址碑】 【土塁上より見た内堀】
【厩跡】
本丸と野牛郭の間にあるが厩跡のすぐ後ろにJR飯田線が通っています。(城址は分断されてます。)
【本丸跡】 【本丸から見た野牛郭とJR飯田線】
【本丸跡碑】 【長篠城址史跡保存館】
長篠の戦いから設楽ヶ原の戦いまでの経緯などがわかる資料が多くある。
【巴城郭跡】
【野牛郭側(踏切渡る前)から見た内堀】 【野牛郭跡】 【物見櫓跡】
【殿井】 【櫓跡】
野牛郭の先端から川の合流点へ下がった個所にある。
【櫓跡下からみた牛淵橋】
【度合からみたJR飯田線鉄橋】
左側は鳥居強右衛門磔刑の場所、右側が長篠城本丸。
【弾正曲輪跡】 【弾正曲輪跡】
【鳥居強右衛門、呼掛けの場所】
援軍を呼びに行き、長篠城に早く戻り援軍が来ることを知らせようとしたが途中で武田軍に捕縛され、「援軍が来ない。」と長篠城に伝えれば命を助けると言われたが、逆に「援軍はすぐそこまで来ている。」と大声で伝えた。これにより鳥居強右衛門は磔刑に処せられるが、長篠城は落城することなく、設楽ヶ原の戦いへと移行し、武田家は衰退する。
【家老屋敷跡】 【大手門跡】
サークルKの駐車場の一角にある。

【蟻塚】
長篠の戦いの戦死者を葬った所で、ここから蟻の大群が出て村人を苦しめたので、碑を建てて供養し、蟻を封じたと伝えられる。
大手門のすぐ近くの民家の一角にある。
【馬場美濃守信房の墓】
天正3年(1575)設楽ヶ原の戦いに敗れて退却する際、殿を務め、武田勝頼ら全軍が安全圏へ退却するのを確認し敵陣へ引き返して討死した。ここは馬場美濃守信房の首を埋めた所といわれている。
【大通寺】
長篠城攻めのときの馬場信房の陣。
【大通寺の盃井戸】
設楽ヶ原の戦いへ行く前に馬場、山県、内藤、土屋の四将は討死を覚悟して、大通寺にあるこの泉で別れの水杯を交わしたという伝説が残っている。
【設楽ヶ原合戦場の馬防柵】
長篠城からも近いので合わせてみると良いでしょう。
グルメ
ジャンル:寿司
店名:なるこ鮨
住所:〒441-1634
  愛知県新城市長篠矢貝津3-12
TEL:0536-32-2266
営業時間:?
定休日:?

日替わりランチを頂きました。
ボリュームもあってこれで800円です。
この日は、海老フライ、キスフライ、マグロ刺身、マグロ時雨煮、煮物(かぼちゃ)、ご飯、漬物、味噌汁(赤だし)でした。
すごく城址に近いのでランチには最適です。




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