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城名 | 小丸山城 | ||
住所 | 〒926-0818 石川県七尾市馬出町子ハ59-2 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 平山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 前田利家 | |||
築城年 | 天正10年(1582) | |||
主な改修者 | 前田氏 | |||
主な城主 | 前田氏 | |||
位置 | 北緯37度2分44秒 東経136度57分36秒 |
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地図 | 1 | 本丸跡 | ||
2 | 天性丸跡 | |||
3 | 宮丸跡 | |||
4 | 大念寺山 | |||
5 | 利家とまつ像 | |||
【概要】 天正9年(1581)8月、織田信長より能登一国を与えられた前田利家は、翌10年正月より小丸山城を築城した。城は東西80m、南北72m、高さ25.6mの本丸を中心に天性丸(第二公園)、宮丸(愛宕山)、大念寺山(御貸山)の四つの砦で構成された。 七尾市街地を東西の袖ヶ江、御祓地区に分ける御祓川は、小丸山築城の際に、能登国中の15歳から60歳までの男を五日間夫役させて掘り上げた掘割である。 宮丸には愛宕神社が建てられた。愛宕の神は火伏せの神で城下町の防火を願い、本持仏は勝軍地蔵なので戦に勝つということから戦国武将に信仰された。利家も兜の中に2cm程の銅製の勝軍地蔵を秘めて戦いに出たと伝えられ、その像は今でも尾山神社に遺されている。 近年の調査で、本丸に巽櫓と坤櫓が建てられていたことが判明し、小丸山城の充実ぶりが窺える。 利家は、天正11年4月の賤ヶ嶽合戦後、豊臣秀吉より能登一国に石川・河北両郡を加増されて金沢城へ移った。利家の兄五郎兵衛安勝は、金沢城代になると共に、小丸山城主となり、町奉行の三輪藤兵衛吉宗・大井久兵衛等と能登の支配に当たった。元和2年(1616)の一国一城令により廃城になったと伝える。 【感想】 すっかり公園化されてしまい遺構はあまりないが曲輪の形状は良く残っているので、往時の面影は何となく感じることが出来ました。 朝早く登城するとラジオ体操が行われており市民の憩いの場所になっているのがわかります。。 |
登城日 | 2011年11月4日(金) | ||
LINK | 小丸山城-Wikipedia | |||
城主家紋 | 【梅 鉢】 (称菅家流) 前田家家紋 |
※説明板の絵図より |
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【小丸山公園入口】 | 【堀切跡】 左側が天性丸跡、右側が本丸跡となる。 |
【氷室跡地】 |
【天性丸南側】 微かに見える川が御祓川で堀の役割を果たしていた。 |
【天性丸跡】 | 【三更橋】 名称は直接小丸山城とは関係ないが、天性丸跡と本丸跡の間の堀切に架かる橋、昔もここに橋があったようである。 |
【三更橋】 | 【堀切】 | 【小丸山城址碑】 |
【利家とまつ】 NHKの大河ドラマがあったので建てられたようです。 |
【本丸内の小高い丘】 この場所が櫓の跡だったのであろう、位置的に坤櫓跡になる。 |
【本丸内の小高い丘上】 |
【日象上人像】 この箇所も櫓跡と思われる。位置的に巽櫓跡になる。 |
【本丸跡の公園】 | 【本丸跡】 |
【宮丸跡】 | 【宮丸跡の忠魂碑】 地震で倒壊の恐れがあったため抜魂され残された石材。 |
【宮丸跡の忠魂碑の鷲像】 |