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※目印は大体の位置を示しています。
城名 七尾城(別名:松尾城、末尾城)
住所 〒926-0025,0023、0024,0031
石川県七尾市古城町、古府町、古屋敷町、竹町入会地字大塚14番の1-2-4、15番の2ほか
入場時間
入場料
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主 畠山満慶
築城年 正長年間(1428-1429)
主な改修者 畠山義綱、上杉謙信
主な城主 畠山氏、上杉氏、前田氏
位置 北緯37度0分32.53秒
東経136度59分2.1秒
地図 本丸跡
調度丸跡
二ノ丸跡
三ノ丸跡
大手道
100名城
スタンプ

【概要】
七尾城は室町幕府の将軍を補佐する管領職を勤めた畠山氏の有力庶流として、応永15年(1408)に独立した能登畠山氏(能登国守護)が、戦国時代(16世紀初頃)に能登府中(守護所)にかわる新たな拠点として築いた山城です。
七尾城は、標高約300mの山頂部に所在する本丸を中心として、北側の山麓までのびる尾根一帯を造成して、長屋式(長殿丸)、本丸、西ノ丸、二ノ丸、三ノ丸などの曲輪を配置、この尾根から枝分かれする幾筋もの尾根にも大小無数の砦を配置している。こうした曲輪が築かれている尾根が七つ(筋)あることが、七尾の地名の由来と言われています。
築城年代は明らかではないがm戦国期には行ってから逐次拡張・増強されたとみられる。永正・天文(1500年代前半)の時代は最も政治的にも安定し、文化が栄えた。大永6年(1562)当代一流の歌人冷泉為広・為和父子が七尾城を来訪し天文13年(1544)の記録では、城山山麓に城下町「千門万戸」が一里余りも連なったと見える。
天正5年(1577)、越後の上杉謙信の攻略あって落城、能登畠山氏は滅亡した。この時謙信が月明りに感嘆して詠じたと伝えられる漢詩
 霜満軍営秋気清 数行過雁月三更
 越山併得能州景 遮莫家郷懐遠征
が広く世に称賛されたことで、本城の名を高めている。
その後、幸いにも自然災害や開発等の厄にもあわず、各尾根上の曲輪跡や石垣は良く保存され、中世における産学城郭史上優れた遺跡として昭和9年12月28日国の史跡に指定された。


【感想】
この山城に車で本丸下まで行けてしまい手軽なお城になっていますが、帰りは是非大手道を下って行って欲しいお城です。
大手道の坂道に点在する遺構と人々がここを通って登っていったんだと実感するとこの城の素晴らしさがより一層分かることでしょう。
それにしても本丸から見る眺望の素晴らしさは際立っていますね。
スタンプ
設置場所
七尾城址史料館
登城日 2011年11月4日(金)
LINK いしかわの遺跡
(社)朝倉氏遺跡保存協会HP
七尾城-Wikipedia
城主家紋 【二つ引両】
(清和源氏足利氏流)
能登畠山氏家紋
【竹に二羽飛び雀】
(藤原氏勧修寺流)
越後上杉氏家紋
【梅 鉢】
(称菅家流)
前田氏家紋

                      

探訪
【二代 畠山義忠公御歌の碑】
野も山も みなうづもるる
雪の中に しるしばかりの 杉の村立
【本丸下入口】
車で上がってくるとここからの登城になります。
【登城道】
ウッドチップが敷かれ歩きやすいです。
【調度丸跡】
弓矢などの武具(調度)を整えた場所。
【桜馬場の石垣】 【本丸石垣】
【桜馬場の石垣脇の登城道】 【調度丸跡】 【桜馬場の石垣】
【遊佐屋敷跡】
この曲輪は、本丸のすぐ西側に接し、七尾城跡の中心部にあることから城主に次ぐ守護代の地位にあった遊佐氏の屋敷と伝えられている。
【本丸石垣】 【本丸虎口から見た本丸跡】
【本丸跡】
城址碑と城山神社。
【城山神社からの眺望】 【本丸土塁】
【本丸虎口】 【遊佐屋敷と桜馬場を仕切る石垣】 【桜馬場跡】
平時に軍馬を検分しその調練を検閲した。馬揃えの場所。
【温井屋敷跡】
城主畠山氏を補佐する八臣(四臣四家)の一人温井氏の屋敷跡。
【二ノ丸石垣】 【二ノ丸跡】
この曲輪は、本丸に次ぐ第二の拠点であり、尾根の分岐点に築かれ、周囲をたくさんの曲輪が取り巻いている。
【二ノ丸から見た温井屋敷跡】 【九尺石】
城の鎮護の要石。石の大きさにちなんでこの名がある。
【二ノ丸土塁】
【堀切】
二ノ丸と三ノ丸の間の堀切。
【三ノ丸跡】
南北110m、東西25mを測り、曲輪の中で最大規模を誇る。
南側の二ノ丸とは、深い「堀切」で仕切られ、本丸を中心とした主郭とは別の曲輪群を構成する。
【安寧寺跡】
畠山氏の墓碑や七尾城攻防戦で滅んだ武士たちの慰霊碑などがある。
【畠山氏の墓碑と慰霊碑】 【袴腰からの眺望】 【袴腰】
【沓掛】
大手道から登城した際、ここで身だしなみを整えた場所。
【大手道虎口】 【樋(とよ)の水】
城内の水源で枯れたことがない。
【寺屋敷跡】 【調度丸へ続く登城道】 【大手道】
【番所跡】
畠山氏の通用門で城内臣下の出入口を警護の兵士が交代で詰めていた場所。
【七曲り】
急カーブの連続を形容して「七曲り」というが、かつては七曲り半くぼと呼ばれていたようである。
【七曲りの楼門跡】
「鹿島郡誌」によると、ここに楼門があったという。
【時鐘跡】
朝夕、城内を始め城下に鐘で時刻を知らせていた場所。
【長坂】 【長坂】
古城町からの登り口を赤坂口と言い、門があった。畠山氏の通用門とも、また城内臣下の出入口ともいう。ここより、遠来の人は通行を禁じられたという。
【赤坂口】 【小田吉之丈顕彰碑】 【妙国寺跡】
【七尾城史資料館】 【七尾城遠景】




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