城名 諏訪原城
(別名:牧野原城、牧野城、金谷城、扇城)
住所 〒428-0022
静岡県島田市金谷
入場時間 諏訪原ビジターセンター
開館時間:午前10時〜午後4時
休館日:月曜日、年末年始(12/29〜1/3)、臨時休館日あり
入場料
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 馬場信春
築城年 天正元年(1573)
主な改修者 松平家忠など
主な城主 今福顕倍、今川氏真、松平家忠など
位置 北緯34度49分4.94秒
東経138度7分11.4秒
100名城
スタンプ
スタンプ
設置場所
諏訪原城ビジターセンター
登城日 一回目:2012年4月15日(日)
二回目:2023年3月19日(日)
LINK 島田市博物館〜諏訪原城〜
島田市観光協会〜諏訪原城跡〜
諏訪原城-Wikipedia
城主家紋 【割菱】
(清和源氏義光流)
甲斐武田氏家紋
【徳川葵】
徳川氏家紋
【概要】
天正元年(1573)、武田勝頼は遠江侵攻撃の拠点とするために、家臣の馬場美濃守信春を普請奉行として築かれた規模雄大な山城であり、当時の東海道武田領の最前線牧之原台地の東北角を占めた天然の要害であった。
城内に諏訪大明神を祀ったことから、諏訪原城の名がついたと言われています。諏訪原城は、駿河から遠江に入る要衝の地にあり、高天神城攻略のための陣城として、攻略後は兵站基地としての役割を担いました。」

天正3年(1575)、徳川家康によって攻め落とされて後、牧野城と改名され、今川氏真や松平家忠らが城番になりました。「家忠日記」には、堀普請や塀普請などの度重なる改修が行なわれたことが記されています。

天正9年(1581)に、高天神城が落城し、翌年、武田氏が滅亡すると、この城の必要性が無くなりました。その後、徳川家康が関東に移ったことから、天正18年(1590)頃廃城になったと言われています。

遺構は、本丸、二の丸、三の丸、大手郭、帯郭、西の丸、搦手、亀甲曲輪の八郭から成る特徴のある縄張りにより配置形態のうえから扇城とも呼ばれた。
自然堀と人工の大小堀が十三本あり、いずれも深くて急斜面を呈しているが石垣は用いられていない。武田氏の守護神である諏訪明神を城内の一角に祀ったことから諏訪原城と呼ばれるか、史料には城の変遷を示す牧野(原)城、金谷城、扇城という呼称が見られる。

【感想】
最寄り駅の金谷駅から徒歩で旧東海道金谷坂を登ってくると牧之原台地の高さを実感し、諏訪原城が牧之原台地の先端にあることが良くわかります。
深い堀を巡らした場所には丸馬出が設けられた技巧的な城であり、甲州流縄張りをいたるところで見ることができるのでゆっくりと見て回りたい城でした。
整備も進み三の丸の表記があった場所は、二の丸の一部になり、堀の名称も変わっています。

                      

探訪〜2012年9月15日(日)〜

※説明板の絵図より
【11号掘ロ】 【11号堀ハ】 【武田方当城主・今福条閑戦死墓塚】
【大手郭】 【北11号掘イ】 【馬場跡】
【帯郭】 【三号堀】 【二の丸前・丸馬出と三号堀】
【三号堀】 【二号掘】 【土橋】
二の丸と丸馬出を繋ぐ橋。
【二の丸跡】
副将または、それに準ずる武士の詰所である。武器保管や他の城からの来城者の詰所にもなる。武士の屋敷もあった。
【五号堀】
この堀は三段鍵堀といい底部は三段になっている。これは甲州流の特徴の一つで階段状になっており敵の侵入に手間取る利点があり珍しい構の空堀である。
【六号堀】
【本丸跡】
城主の居住する所で軍政を司る所。
【天守台地】
この城は、山城であり天守閣はなく二層からなる櫓があり物見が常駐しており敵の動きを監視していた。
【搦手口】
【搦手口下】 【本丸からの眺め】 【十五号堀】
【六号堀の堀底にあるカンカン井戸】 【水の手】 【三の丸跡】
食料・武器弾薬を備えている重要な場所。
【土塁】
二の丸と三の丸とを隔てる土塁。
【壁立】
壁のごとく切り立った構造をいう。特に堀と堀との直結した間隙に構え堀を伝っての直接の敵の侵入を防ぐものである。
【土橋】
【諏訪神社】 【諏訪神社】
境内が丸馬出になっている。
【九号堀】
【九号堀と土橋】 【八号堀】
探訪〜2023年3月19日(日)〜

※案内案より

※推定復元図
【大手南外堀(東側)】 【大手南外堀(西側)】 【武田方当城主・今福条閑戦死墓塚】
【大手曲輪】 【大手北外堀】 【大手北外堀】
【外堀(二の曲輪堀)】 【城址碑】 【惣曲輪】
【番小屋跡】 【二の曲輪中馬出】 【二の曲輪中馬出南側土橋】
【二の曲輪中馬出】 【二の曲輪中馬出】 【二の曲輪馬出の模型】
ビジターセンター内に展示されています。
【堀切】
二の曲輪中馬出の北側にあります。
【堀切】 【二の曲輪中馬出】
【二の曲輪中馬出北側土橋付近】 【二の曲輪北馬出門】
門の形式は薬医門。まだ塀は出来ていないので出来ればより当時の姿になって行くのでしょう。
【二の曲輪馬出門北馬出門】
門の内側は二の曲輪北馬出になっている。
【木橋】
下は堀切になっている箇所。
【二の曲輪の虎口部分と土橋と外堀(二の曲輪堀)】 【外堀(二の曲輪堀)】
土橋の北側
【外堀(二の曲輪堀)】
土橋の南側
【二の曲輪跡(北側部分)】 【本曲輪の虎口部分と土橋】
【本曲輪の土橋】 【内堀(本曲輪堀)】 【本曲輪跡】
【本曲輪道路跡】 【本曲輪土塁】 【本曲輪南側部分】
【本曲輪から望む島田市街】 【本曲輪から望む島田市街】
富士山も見られる場所なのですが、雲がかかっていて見れませんでした。
【本曲輪下の腰曲輪と内堀】
【本曲輪下の内堀】 【内堀】
本曲輪と二の曲輪の間部分
【カンカン井戸】
【水の手曲輪指標】 【水の手曲輪】
牧之原台地から今も水がしみ出している。
【二の曲輪南側】
【二の曲輪大手馬出方向】 【外堀】 【二の曲輪南馬出】
【二の曲輪南馬出】 【二の曲輪東内馬出の土橋】 【二の曲輪東内馬出】
【二の曲輪東馬出の土橋】 【二の曲輪東馬出】 【二の曲輪大手馬出】
ここには諏訪神社があります。
【諏訪神社】
観光〜旧東海道石畳(金谷坂)〜
【石畳上り口】 【石畳】
約430mの石畳です。現存していたのは30m程度でしたが地元の方々が復元したそうです。
【すべらず地蔵尊】





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