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※地図上の赤い線は大体です。(丸子城は地形が複雑なため間違っている可能性あり)
城名 丸子城(別名:鞠子城、宇津ノ谷城、三角山城)
住所 〒421-0103
静岡県静岡市駿河区丸子
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 斎藤安元
築城年 応永年間(1394年〜1428年)
主な改修者 武田氏
主な城主 今川氏、山県昌景、松平氏
位置 北緯34度57分47秒
東経138度19分9秒
地図 外曲輪
北曲輪
銃座(堡塁)
本曲輪
大鑪曲輪
【概要】
丸子城は、丸子川に沿って走る東海道を眼科に見る自然の要害の地に築かれています。この城は、駿府防衛の関門として重要な役割を果たしてきました。
創築年代は明らかではありませんが、今川氏による駿河支配が始まる南北朝時代まで遡る可能性があります。
丸子から宇津ノ谷にかけては、連歌師宗長の『宇津山記』に記されている斎藤加賀守一族の支配地でした。斉藤氏は、泉ヶ谷に居館を構え、今川氏の家臣団の一員として駿府の西の護りにあたっていました。
永禄11年(1568)の甲斐の武田軍の駿河侵攻に伴い、この地も武田氏の勢力下におかれ、甲斐の山県昌景などの武将が在城して今川氏に備えていました。
この武田氏が支配する時代に、丸子城は大規模な武田流の大改造が行われ、現在の丸子城が作られました。
天正10年(1582)には徳川家康は、持舟城での攻防を経て駿府を武田氏の支配から取り戻します。その直前にも丸子城には武田氏の家臣が在城して護りについていましたが、丸子城における戦いの記録はなく、持舟城の攻防の前後に武田勢は退いたものと思われます。
徳川家康は、一時家臣の松平備後守を入城させましたが、天正18年(1590)の家康の関東移封とともに丸子城は廃城になったものと考えられます。

【感想】
登場道からは急峻な山道を登ると外曲輪にたどり着きます。
そこからは、中世山城の遺構がよく残っており、戦略上の重要拠点なだけあって実に戦闘的な作りになっています。
三日月堀や堡塁、竪堀と横堀見どころ満載の城でした。
登城日 2012年4月15日(日)
LINK ようこそ静岡へ(静岡観光コンベンション協会)
丸子城-Wikipedia
城主家紋 【赤鳥】
今川氏家紋
【割菱】
(清和源氏義光流)
甲斐武田氏家紋
【徳川葵】
徳川氏家紋

                      

探訪

※説明板の絵図より

※説明板の絵図より(加筆あり)
【丸子城全景】 【丸子城登城口】  【外曲輪】
この場所には、静清バイパス建設のために移設された丸子稲荷神社が置かれている。
【東の曲輪の三日月堀】 【三日月堀脇の土橋】 【東の曲輪(大手曲輪)】
【北の曲輪への登城道】 【竪堀】 【北曲輪】
【竪堀】 【北曲輪の土塁】 【北曲輪】
今川時代の本曲輪と伝えられている。
【銃座(堡塁前の三日月堀】
北曲輪と二ノ曲輪の間の下の段にあり、下から来た敵を向い打つ場所とも言っていい場所である。
【銃座(堡塁)】
堡塁と曲輪の間には溝があり、堡塁を守る兵も命懸けであったであろう。
【二ノ曲輪】
【橋台と枡形虎口】
二の曲輪と本曲輪との間には堀切があり、この場所に木橋が架けられていたようである。本曲輪側は枡形小口となっている。
【堀切】
二の曲輪と本曲輪との間にある。
【本曲輪】
【本曲輪の土塁】 【平虎口】 【本曲輪】
【本曲輪下の馬出曲輪(物見曲輪)】 【平虎口下】 【馬出曲輪から見た本曲輪下】
【長大竪堀】
大鑪曲輪近くにある竪堀で麓の方まで続く長大な竪堀。
【大鑪曲輪は下の帯曲輪?】 【大鑪曲輪の三日月堀】
グルメ
ジャンル:郷土料理
店名:丁子屋
住所:静岡県静岡市駿河区丸子7-10-10
TEL:054-258-1066
営業時間:11:00〜19:00
定休日:木曜日(月末は水・木連休)

東海道膝栗毛にも出てくる歴史あるお店。
濃厚な自然薯でつくるとろろ汁、山城登った後なのでご飯はもちろんお替りをいただきました。
写真は「駿河」。




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