powered by 地図Z
城名 清洲城(別名:清須城)
住所 〒452-0932
愛知県清須市朝日城屋敷1番地1
入場時間 清洲城天主閣
午前9時〜午後4時30分
定休日:月曜、祝休日の翌日、
    年始年末(12/29〜12/31)
入場料 大人:300円、小人:150円
指定文化財 なし
城郭構造 平城
天守構造 不明
望楼型3重4階 1989年鉄筋コンクリート造り模擬天守
築城主 斯波義重
築城年 応永12年(1405)
主な改修者 織田信長、織田信雄
主な城主 斯波氏、織田氏、豊臣氏、福島氏、徳川氏
位置 北緯35度12分59.67秒
東経136度50分36.95秒
地図 清洲城
石垣(復元)
本丸跡
織田信長公像と濃姫像
五条橋
【概要】
室町時代応永12年(1405)、尾張国の守護職であった斯波義重が、守護所であった下津城(稲沢市)の別郭として建てられたのが清須城の始まりといわれています。

文明8年(1476)戦乱により下津城が焼失した後の文明10年(1478)守護所が清須に移転することで、清須が尾張国の中心地となります。京や鎌倉に連絡する往還と伊勢街道が合流する交通の要衝でもあり、尾張の政治・経済・司法の中心地として繁栄を迎えます。

弘治元年(1555)に織田信長公が那古野城から入城、尾張を統一掌握したころの清須城の基本構造は、守護の館と同じと考えられています。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いに勝利した信長公は、ここ清須から天下統一への第一歩を踏み出しました。

天下統一へ突き進む途上、本能寺の変で斃れた信長公の跡目を決める清須会議の後、城主となった次男、信雄によって改修された清須城の城郭は、天守を備え東西1.6km、南北2.8kmにも及ぶ巨大な城郭の中に城下町のあらゆる機能を備えた城塞都市として過去最大の規模に達します。

その後城主は、織田家から豊臣秀次(関白)、福島正則と移り、天下分け目の関ケ原の戦いでは、東軍の最前線の城として重要な軍事拠点となります。関ケ原以後、城の主は松平忠吉(家康四男)、徳川義直(家康九男)と変遷しますが、この頃の清須城下は、人口6万を数える賑わいを見せ、朝鮮通信使の記録にも「関東の巨鎮」称され、また清須城は「天下の名城」と讃えられました。

慶長15年(1610)徳川家康は、清須城廃城と名古屋城築城を命じ、町の建物、町の機能全てが移転する「清須越」が行われました。これより尾張の政治。経済・司法の中心は清須から名古屋へ移り、清須城とともにその城下町は歴史から姿を消し去りました。なお、名古屋城築城に際し、取り壊された清須城の資材が再利用され、特に名古屋城御深井丸の西北隅櫓は、「清須(洲)櫓」とも呼ばれ清須城天守の古材でつくられたといわれます。

平成元年(1989)、四百年近くの年月を経て歴史ある城が「清洲城」として天主閣をはじめ、芸能文化館、清洲城広場などをしたがえ地域のシンボル、平城のお城として甦りました。
しかし城址は東海道新幹線などにより分断され、現在の天主は昔の天守の位置と異なります。昔の天守は現在の対岸の清洲古城跡公園に位置していた。

※「清須」と「清洲」の表記について「清洲越」前を「清須」、それ以後を「清洲」としている。

【感想】
線路に分断されてしまっている清洲城は昔を思わせる遺構は復元展示されている石垣くらいですが対岸に建てられた模擬天守はすっかり馴染んでいるようです。


登城日 2013年4月28日(日)
LINK 清須市HP-清洲城
清洲城-Wikipedia
城主家紋 二つ引両
(清和源氏足利氏流)
斯波氏家紋
【織田木瓜】
織田氏家紋

                      

探訪
【五条橋】
室町期斯波氏の時代から架かり、1610年の清須越で城と共に名古屋堀川に移されるまで、まさに「御城橋」の役を果たしてきました。
【清洲城址碑】 【織田信長像】
清洲公園内にあります。
【織田信長像】 【濃姫の像】 【濃姫の像】
【清洲城遠景】 【右大臣織田信長公古城址碑】
清洲古城跡公園内小高い丘の上にあり、この周辺が本丸跡だったと思われる。
【清洲城石垣】
清須越直前の本丸南側の石垣と考えられる。
石垣の基礎は、軟弱な地盤に耐えられるように松材を用いた「梯子胴木」と呼ばれる構造になっており、石材はこの基礎の上に「野面積み」により積まれている。
【清洲城】 【清洲城模擬門】
両脇は熱田神宮の信長塀を模している。
【清洲城天主閣】
【天主閣内の信長像】 【天主閣より見た清洲城本丸跡】
線路により分断された部分が本丸である。




Back



inserted by FC2 system