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※目印は大体の位置を示しています。
城名 岩村城(別名:霧ヶ城)
住所 〒509-7403
岐阜県恵那市岩村町字城山
入場時間 岩村歴史資料館
4月〜11月:午前9時〜午後5時
12月〜3月:午前9時半〜午後4時
休館日:月曜日(祝日と重なった場合は翌日)
祝日の翌日、年始年末(12/28〜1/4)
入場料 一般:300円、高校生以下:無料
指定文化財 県指定史跡
城郭構造 梯郭式山城
天守構造 なし
築城主 遠山景朝
築城年 承久3年(1221)以降
(鎌倉中期)
主な改修者 川尻秀隆、各務元正
主な城主 遠山氏、森氏、大給松平氏、丹羽氏
位置 北緯35度21分35.75秒
東経137度27分3.68秒
地図 太鼓櫓
本丸跡
二ノ丸跡
出丸跡
六段壁(六段石垣)
100名城
スタンプ

【概要】
岩村城は別名を霧ヶ城といい、天然の峻険な地形を活用した要害堅固な山城で、海抜721メートルに位置し、全国の山城の中で最も高地にあり、日本三大山城の一つである。
岩村城の創築は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の重臣加藤景廉が、文治元(1185)年に遠山荘地頭に補せられたのに始まる。景廉の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に攻め、以降遠山氏が代々居城した。

戦国時代後期になると武田領、織田領、徳川領に近接し、遠山景任の代には織田信長と姻戚関係を結び武田信玄に対抗します。元亀2年(1571)、景任が死去すると信長は景任の正室(おつやの方:信長の叔母)を城主「女城主」と定め坊丸(信長の五男)を嗣子とする体制にしますが、元亀3年(1572)、武田家家臣秋山信友の猛攻により岩村城は落城寸前まで攻め込まれます。信友は和議の条件におつやの方との婚儀を条件にした為、結婚が成立後、防丸は人質として甲府に送られ、岩村城は開城し信友が城主となりました。

天正3年(1575)、長篠の戦いの後武田家が衰退すると織田家の甲斐侵攻が開始され岩村城も標的となり織田信忠により落城。信友・おつやの方夫妻は長良川河川敷で逆さ磔となり処刑された。
その後、河尻秀隆、森蘭丸(森可成の三男)、森長可(森可成の次男)、森忠政(森可成の六男)、
田丸直昌(具忠)と28年間短期間で城主が代わりますが随時、岩村城は改修、拡張が続けられ特に森氏の時代に城代として赴任した各務兵庫助元正が18年間精力的に整備し現在の岩村城に見られる近代的山城が完成しています。

慶長5(1600)年関ヶ原合戦後、西軍に属した田丸氏に変わって松平家乗(大給松平家)が城主となった。江戸時代の城主は松平氏2代、丹羽氏5代の後、大給松平分家の松平氏7代を経て明治維新を迎えた。
城郭は中世城郭を近世城郭へと修築し、本丸、二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等々が設けられ、丸と曲輪は石塁や自然の断崖をもって区画され、要所に櫓、塀、城門が構えられた。
建物は明治維新により廃城され、後明治6(1873)年に取り壊された。


【感想】
本丸周辺は長局を2つもち東曲輪や二ノ丸に至る構造は複雑で石垣も見事。
入口の六段石垣は岩村特有であり見どころである。また、畳橋跡から追手門枡形付近の構造も複雑で見ごたえがある。


スタンプ
設置場所
岩村歴史資料館受付窓口
休館日(平日):岩村振興事務所
登城日 2013年4月29日(月)
LINK 恵那市観光協会HP「え〜な恵那」-岩村町
恵那市HP-岩村歴史資料館
岩村城-Wikipedia
城主家紋 【丸に二つ引両】
(藤原氏利仁流)
岩村遠山氏家紋
【鶴 丸】
(清和源氏義家流)
森氏家紋

                      

探訪

※岩村歴史資料館がある場所の案内板による(加筆有り)
【太鼓櫓】 【岩村藩主鄭跡】
ここに岩村歴史資料館があります。
【岩村藩校知新館・正門】
【岩村城登城口】
徒歩で登る場合はここからになります。
【登城道-藤坂】
藩主鄭から一ノ門まで続く坂道を特に「藤坂」と呼んでいる。
【初門】
直線的に伸びる登城坂でこの部分だけが、行く手を遮るようにU字形に大きく曲げられている。有事の際にはここに門を構えて通行を遮断するようになっていたため「初門」と呼んだ。
【一ノ門】
二層の櫓門があった。大手一ノ門とも呼ばれる。
【土岐の門】
岩村城第二の門で、内側は馬出状の曲輪となっている。古図では薬医門または四脚門として描かれている。
【畳橋】
大手の入口は、高石垣と枡形門、三重櫓によって厳重に固められており、前面の空堀にL字形に架かる木橋を渡って内部に入るようになっていた。床板を畳のようにめくることができたから、畳橋と呼ばれた。
【追手門・三重櫓跡】
追手門は、畳橋から棟門をくぐり直角に右に曲がって櫓門に入る枡形門である。脇には畳橋を見下ろすように三重櫓が構えられていた。
【追手櫓門跡】
岩村城の正門(追手枡形の二ノ門)。城中最大の門。
【竜神の井】
岩村城最大の井戸で昭和60年に創築800年を記念して復元した。
【五郎作屋敷跡】
城内住込みの侍屋敷。五郎作とは誰のことなのか?
【霧ヶ井】
霧ヶ城と言われる元となった井戸。敵が城を急襲した時この井戸へ城内秘蔵の蛇骨を投げ入れると忽ち霧が立ち込めた城を覆い隠したと云う伝説がある。
蛇骨は二ノ丸の宝蔵に収蔵されており虫干しをしたという記録が残されている。
【霧ヶ井付近の登城路】
右手が八幡神社側になる。
【八幡神社の参道(鳥居のあった場所)】
中世の城主遠山氏の氏神で始祖加藤景廉を祀る。明治5年(1872)に山麓の現在地へ移転した。入口に鳥居が建ち、中段には別当寺である薬師寺、最奥部に拝殿と本殿、八幡櫓があった。棟札から永正5年(1508)には神社があったことがわかる。
【八幡神社中段】
ここに薬師寺があったのであろう。
【八幡曲輪跡】
【八幡櫓跡】
三間と四間の二重櫓。
【八幡神社跡】
八幡曲輪内の一段高くなった場所。
【霧ヶ城 龍神社】
現在は龍神社が建っている。
【俄坂櫓門跡】
俄道口の門で城の裏門にあたる。天正以前は正門。
【菱櫓跡】 【六段壁(石垣)】
本丸の北東面に雛壇状に築かれた六段の見事な石垣である。元は最上部のみの高石垣であったが、崩落を防ぐために前面に補強の石垣を積むことを繰り返した結果、現在の姿となった。
【六段壁(石垣)】 【東曲輪虎口】
この上に門が設けられており、構造的には本丸に対して外枡形的機能を持った構造になっている。
【東曲輪・下段跡】
東曲輪虎口を上がって左側。
ここが外枡形内部に当たる。
【二重櫓跡】
水晶山方面の巡視の役を持つ建物。物見櫓相当のものと思われる。
【二重櫓跡から見た六段壁】 【二重櫓跡から見た六段壁】
【東曲輪・上段跡】
本丸防備のための重要な場所であった。
【長局埋門跡】
防御を主目的とした狭い門であった。
(東曲輪・上段から本丸への虎口)
古い看板によればここが埋門跡。
【長局埋門跡】
この枡形の上に多門櫓がのっていた。
【平重門跡と東側長局】
本丸・東側枡形虎口。
【本丸北側虎口と北側長局】 【本丸跡】
納戸櫓など二重櫓2棟、多門櫓2棟が石垣上に構えられていた。東と北には一段低い位置に長局と呼ばれる長い曲輪が付属する。本丸内部には施設はなく、広場になっていた。
【平重門の枡形】
本丸側より見た枡形。
【昇龍の井戸】 【本丸上段】
【岩村城歴代将士慰霊碑と岩村城説明版】 【埋門へ続く北側長局虎口】
形状が複雑でクランクした通路には3ヶ所に門扉が設けられていた。
【北側長局虎口に当たる埋門跡】
両側と奥の石垣の上にすっぽりとかぶさるように櫓が設けられていた。
【本丸石垣】
右手方向が本丸と二ノ丸の間道で番所があった。またこの石垣は本丸北東角に当たり六段壁の上段になる。
【二ノ丸跡】
米蔵、武器蔵、番所などが置かれていた。
【本丸石垣と本丸西側に続く武者走り?】
下の道を進むと出丸へと続く。
【出丸跡】 【出丸跡】
現在は駐車場になっておりこおからも登城ができる。
【出丸・太鼓櫓跡】
非常の時、太鼓で城中に知らせるための櫓。
【出丸・氷餅蔵跡】
籠城に備えて氷餅を貯蔵していた。
【出丸・武者隠多門跡】
非常時に多数の武士が待機した建物。
【南曲輪跡(仮称)】
本丸の南側の尾根に伸びる戦国時代の遺構で、2本の堀切や竪堀、土橋などの遺構を観察することができる。江戸時代には一部が侍屋敷として用いられたほかは戦国期の状態のまま維持されていたとみられる。




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