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※赤い線は登城経路を大体の位置で示しています。
城名 苗木城(別名:霞ヶ城、赤壁城)
住所 〒508−0101
岐阜県中津川市苗木
入場時間 中津川市苗木遠山資料館
開館時間:午前9時〜午後5時(入館は4時30分まで)
休館日:月曜日(月曜が祝日の場合翌日)
    年末年始(12/27〜1/5)
入場料 一般:310円、小中学生以下無料
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 山城
天守構造 三層三階
現在は柱と梁組みで天守三階部分の床面を想定復元(岩の柱穴は既存のもの)
築城主 遠山景村
築城年 建武年間(1334〜1335)
主な改修者
主な城主 遠山氏、川尻氏
位置 北緯35度30分47.52秒
東経137度29分6.94秒
地図 風吹門跡
大矢倉跡
二ノ丸御殿跡
天守跡
物見矢倉跡
【概要】
苗木城の創築は諸説あるが、一般的には岩村城の支城として、遠山景村が南北朝時代の建武年間(1334〜1335)に築いたと云われている。
加藤景廉を祖とする遠山氏は室町時代に恵那郡内で勢力を拡げ、岩村城に拠る本家の岩村遠山氏を中心に「遠山七頭」と云われる一族の結束を保っていた。中でも、中心となる岩村・明知・苗木の遠山氏は遠山三人衆と呼ばれた。

苗木城主遠山友政は父友忠とともに織田信長に仕えていたが、天正11年(1583)、豊臣秀吉の命に背いたため、森長可の攻撃を受け、城を捨てて徳川家康のもとに奔った。
その後、苗木城は川尻直次が領していたが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際、友政は家康に願い出て、西軍に与していた直次の苗木城を攻め落とし、合戦後、軍功によって苗木城を回復し、美濃国恵那・ 加茂2郡内において1万5千石を与えられて立藩した。1万石は大名の最小単位であり、通常は城ではなく陣屋であったが、遠山氏は城持ち大名であった。
以後苗木城は遠山氏12代の居城として明治を迎えた。

【感想】
全国には1万石クラスの大名は多かったが、なぜ苗木藩のみが城持ちを許されたのであろうか?
しかも国替えもなく12代続いた大名でもある。
そんな不思議な城でもあるが、全国的に見ても巨石と掛け造りの珍しい城でもあり、巨石の存在感に圧倒される。
天守から見る大矢倉は中南米の遺跡のようにも見えたりと日本ではないような感じがする場所だった。


登城日 2013年4月29日(月)
LINK 中津川市苗木遠山資料館HP
苗木城-Wikipedia
城主家紋 【丸に二つ引両】
(藤原氏利仁流)
遠山氏家紋

                      

探訪

※苗木城見取り図より(加筆有り)
【足軽長屋跡・龍王院跡】
左手前のポストの中に上で使用している「苗木城見取り図」が入っている。
【足軽長屋跡・龍王院跡】
石垣により造成された約30m程の広場には「小頭部屋」、【稽古場」など数棟が建ち並んでいた。足軽が出仕する前に立ち寄る場所であった。
足軽長屋の奥(南側隣地)には「光耀山金厳寺龍王院」という領主遠山家の祈祷所で真言宗の寺院であったが、明治維新の廃仏毀釈運動にて神職が支配するところとなった。
【登城道】
【風吹門跡】
二階が「飼葉蔵」として使われていた風吹門は大手門とも呼ばれ、城下から三ノ丸への出入り口に位置する。
門の右側(南側)に門番所が併置され、昼夜を問わず人の通行を監視していた。
城主の在城時は開門し、江戸在府中は締め切られ、右側の潜り戸が利用された。
【大矢倉跡】
手前の坂道を上がると北門跡へ続く。
【貯水池】
北門手前にあり、馬の飲み水に利用されたいた。
【北門跡】
城の外郭にあった土塀付の門で門番はいなかった。
東側に下ると木曽川に、北側の道は家臣の屋敷群跡に通じる。
【大矢倉跡(別名:御鳩部屋)】
外観からは二層に見えるが、実際は三階建てであった。
一階は三方を石垣で囲われ(穴藏)、倉庫として使われていた。苗木城最大の櫓建築で、二階、三階の壁には矢狭間が設けられるなど、大手門である風吹門や北側からの防御のために17世紀初頭に作られた。
【大矢倉跡上より見た天守方向】
【駈門跡】 【駈門跡】 【材木蔵跡?】
見取り図には駈門という門は見られず、材木蔵に駈ノ間という場所が見られる。そう考えるとこの上に材木蔵がのっていたと思われる。
【牢屋跡】 【牢屋跡】 【埋門跡】
この埋め門は見取り図には載っていない。
【苗木城跡碑】 【大門跡】
苗木城最大の門で、二階建てで三ノ丸と二ノ丸を仕切っていた。門の幅は二間半、二階部分は物置に利用されていた。領主の江戸参勤出立時などの大きな行事以外は開けず、普段は、左側(東側)にある潜り戸を通行していた。
【御朱印蔵跡】
「切石」できっちりと積まれた石垣の上に建てられていた御朱印蔵には、将軍から代々与えられた領地目録や朱印状など重要な文書や刀剣類が納められていた。
これらの収蔵品の虫干しは、毎年一度必ず行われ、また蔵への出入りには梯子が利用されていた。
【二ノ丸御殿跡】
写真を撮った場所は台所門跡付近と思われる。
【二ノ丸・的場跡】
苗木城には、弓の稽古場としての的場が本丸と二ノ丸に設けられた。
二ノ丸にあるこの的場は、領主居間の南側、一段と低いところにあった。
【不明門跡】
一段と低いところにある門で二階建てであった。
二階部分は物置に使用され、一階部分(床下)は門になっていた。幅約一間の通用口の両側の壁は石垣で、高さは最大3.2mある。
普段は閉め切られ、忍びの門であるといわれているが、現在門から外につながる道は確認できていない。
【清水門跡】
門の北側にある大岩の下から清水が湧き出してどんな時でも涸れることがないといわれている。
【貯水池】
清水門の名のもととなった清水を貯える池。この清水を用水として利用していた。
【八大竜王社】
明治以後ここに移設された。
【物見矢倉跡(別名:木曽物見)】
木曽川に面した崖の上に建つ。一部二階建ての四間、六間の建物で、「徒士具足蔵」・「物置」の二部屋があった。
【仕切門跡】
城の二ノ丸から本丸に至る南側の登り道には、崖沿いに石垣が築かれ塀が設けられていた。
門は屋根付き二間、四間半の建物で、門の右側は小屋(物置)として利用されていた。
【仕切門小屋跡】
【本丸・的場跡】
【本丸より見た大矢倉跡】
まるで中南米の遺跡のように見える。
【本丸北東側石垣】
【千石井戸】 【本丸口門跡(別名:欅門)】
本丸と二ノ丸の境となる門で総欅で建てられていた。
【具足蔵跡(別名:旗蔵)】
本丸口門から見て右側の崖上にあり、二間三尺、三間の建物である。ここには領主の具足や旗が保管されていた。
【武器蔵跡(別名:八間蔵)】
長さ八間(約16m)、奥行三間(約6m)の土蔵。大名遠山家が所持していた鉄砲や弓などの武器が納められていた。
【武器蔵付近から見た天守跡】 【馬洗岩】
天守台跡の南下にある大岩をいう。
馬洗岩の名の由来は、かつて苗木城が敵に攻められ、敵に水の手を切られたとき、この岩の上に馬を乗せ、米にて馬を洗い、水が豊富であるかのように敵を欺いたことから付けられたといわれている。
【天守南東側登城口】
こちらが正式な天守部への入口。
【本丸より見た南東側眺望】 【天守南東側の巨石】
この通路を通ると左下の礎石が確認できる。
【天守南東側の巨石】 【天守南東側巨石群にあった礎石跡】 【天守南側石垣】
【天守跡】 【天守跡】
苗木城の天守は二つの巨岩にまたがる形で作られ、三層となっていました。一階部分の名称は「天守縁下」、二階部分は「玉蔵」、三階は「天守」。
【天守南西方面の眺望】
【天守跡の木組み】 【本丸玄関】
天守台より一段低い位置にあり、玄関を入ると、苗木城の特徴の一つである掛け造りの千畳敷(玄関左側)を通り、回り込むようにして南東側から天守台へ入りました。
玄関には玉石が敷かれていた。
【玄関口門跡】
玄関口という名の通り、この門を抜けていくルートが、天守への正式な道でした。
この門の先には土廊下の建物が続いており、奥は小屋とつながっていました。
通常は鍵が掛けられており、ここから中に入ることは禁じられており、鍵は目付役が管理していました。
【笠木矢倉跡】
本丸から見て西側にある3階建て掛屋造りの矢倉で巨岩の上に建てられていた。
【坂下門跡(別名:久世門)】
この門は二脚となっており、門の礎石と手前の石段がよく残されている。
【綿蔵門跡】
本丸へ上がる道を遮る形で建っており、夕方七つ時(午後四時)以降は扉が閉められ、本丸へは入れなかった。
門の名の由来は、年貢として納められた真綿が、門の二階に保管されていたことからきている。




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