powered by 地図Z | 城名 | 川手城(別名:革手城、革手府) | ||
住所 | 〒500-8741 岐阜県岐阜市正法寺町33(済美高等学校の一角) |
|||
入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | なし | |||
城郭構造 | 平城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 土岐頼康 | |||
築城年 | 1353年(南朝:正平8年、北朝:文和2年) | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 土岐氏、長井新左衛門尉、斎藤道三 | |||
位置 | 北緯35度23分45秒 東経136度45分44秒 |
|||
地図 | 1 | 川手城址碑 | ||
2 | − | |||
3 | − | |||
4 | − | |||
5 | − | |||
【概要】 美濃守護職第三代・土岐頼康は、土岐頼遠の後を継いで土岐総領となる。足利尊氏の命により信州(信濃)・予州(伊予)の平定、その軍功により美濃・尾張・伊勢の三ヶ国の守護職となる。長森城は所狭きもって1353年6月、現岐阜市下川手に革手城を築きこれに移った。別名:革手府。土岐源氏の名声は実力は最高に至った。 この城は、旧木曾川と現荒田川を改修し天然の地の利を生かした広大な城地で、七堂伽藍をもつ霊薬山正法寺・源氏の守護神八幡神社をはじめ、神社仏閣、数多くの平屋建築、城郭というより御殿風(都風)の建物だったと推察される。以後、革手城は11代まで歴代の守護職の居城となる。 革手城が都風になって反映したのは、建武の新政の失敗と応仁元年(1467)の応仁の乱である。都を追われた公家・百官・天上人が地方の守護職を頼って寄宿したことにある。これらの人々を受け入れるだけの余裕があったのは、西の大内氏(山口)と東の土岐氏(革手)である。これらの人達は、都に帰る日を待ちながら詩歌・蹴鞠・能楽など都文化の花を咲かせた。当時革手付近は「柳に桜をこきまぜて」錦を飾る京洛中の態に異ならざる盛んな有り様であった。しかし、こうして築かれた革手府文化は、明応2年(1494)、土岐氏の相続争いを発端とする船田の乱によって灰塵となった。 後に再建されるが、享禄3年(1530)、土岐氏を追放した斎藤道三が稲葉山城に拠点を移したことにより廃城となる。城下町である川手は、廃城後も斎藤道三の加護で繁栄し、当時来日した宣教師などがその繁栄ぶりを書き残している。しかし、織田信長の頃になると川手の町はほとんど岐阜(旧稲葉山)に移り衰退した。 廃城後も土塁などが残っていたが、徳川家康の命により加納城の築城が開始されると、土塁や土砂までも使われてしまい跡形もなくなってしまった。現在は済美高等学校の校内の一角に石碑があり、城域の北隅と推察され、大部分は済美高等学校の敷地と考えられる。 (基本は説明板を基にしたが船田の乱以降についてはWikipediaを参照、また説明板では川手ではなく革手と記されている) 【感想】 小説や何かで読むと革手の表記の方が印象に強く、繁栄した当時の規模などは相当なものだったのだろうと想像はつくが、城址としての遺構が何もなくなってしまっているのは寂しい限りである。それでも校庭のこの一角に城址碑だけでもあるのはありがたい話である。加納城のすぐ近くなので一緒に周ると良い。 |
登城日 | 2013年5月1日(水) | ||
LINK | 川手城-Wikipedia | |||
城主家紋 | 【土岐桔梗】 (清和源氏頼光流) 土岐氏家紋 |
|||
【二頭波】 斎藤氏家紋 |
− | ||
【川手城址碑】 | 【川手城説明板】 | − |