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※赤い線は登城経路を大体の位置で示しています。
城名 墨俣城(別名:一夜城、墨俣一夜城)
住所 〒503-0102
岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742-1
入場時間 墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)
開館時間:午前9時~午後5時
    (入館受付は午後4時30分まで)
休館日:月曜日(祝日の場合はその翌日)
    祝日の翌日
    年末年始(12/29~1/3)
入場料 一般:200円、18歳未満無料
指定文化財 大垣市指定史跡
城郭構造 平城
天守構造 なし
現在は資料館(模擬天守)が建つ
築城主 不明(木下藤吉郎秀吉か?)
築城年 不明(永禄4年(1561)か?)
主な改修者 伊木忠次
主な城主 不明(なし?)
位置 北緯35度22分1.54秒
東経136度41分15.76秒
地図 資料館(模擬天守)
出世橋
冠木門
【歴史の真実は?】
永禄4年(1561)、美濃・稲葉山城主・斎藤義龍が没し、その子龍興が跡を継ぐと織田信長は本格的に美濃攻めを開始する。その拠点として、長良川、犀川、木曽川などが合流し「州の股」のようになっている墨俣を築城の地に選んだ。しかし、敵地の中であって築城は困難を極め、佐久間信盛や柴田勝家も斎藤軍の攻撃を受け、失敗に終わる。そこで木下藤吉郎(豊臣秀吉)は近郷の野武士であった蜂須賀党などを駆り集め、川の上流から資材を筏に組んで流し、あっという間に城を築きあげ、秀吉出世の一歩になったという話が有名だが史実を決定付ける資料はない。

この「州の股」にはもともと斎藤氏の城があって、ここから永禄4年(1561)長井甲斐守、日比野下野守が出陣し信長軍と対陣し、両名は打ち取れられ、信長は州の股の要害を補強し入城していると大田牛一著『信長公記』にある。

一方、有名な木下藤吉郎の墨俣築城は、『太閤記』、『日本外史』、『新撰美濃志』など多くの文献でみられますが、その概略を推測される範囲でしかありません。昭和52年、愛知県江南市の文化財保護委員瀧善義氏により紹介された、同市前の旧家吉田龍雲家所蔵の前野家古文書には、企画・準備・押出・戦略・構築の状況が具体的に記録され、一夜城の謎を解明する新しい史料として注目に値するとし、場内の看板に一部抜粋が紹介されている。(探訪に示す)

唯一真実なのはこの場所に天守は建っていなかったということであろう。


【感想】
模擬も模擬の資料館が建つ墨俣。
いまだ謎多き墨俣城、城と言っていいのかもわからない。実際は砦か?
歴史の真実は不明であるが、この資料館のある場所が川の中洲であることは現地を見てよくわかる。そして岐阜城と小牧城の位置関係など考えると確かにこの場所はと思わざるおえない。
信長にとって美濃攻略の上で、この地は戦略上の重要拠点ではあったように思える。


登城日 2013年5月1日(水)
LINK 大垣市HP-大垣市墨俣歴史資料館
墨俣城-Wikipedia
城主家紋

                      

探訪

※前野家古文書の一部抜粋資料
【墨俣城址と犀川】
現在は大垣市墨俣歴史資料館として模擬天守が建つ。
【墨俣城址と犀川】 【墨俣城址と犀川】
鉄塔が邪魔ですがカメラに映える資料館です。
川岸の越流堤より撮影。
【墨俣城址】 【太閤出世橋】 【太閤出世橋】
こんな橋もなかったはずです。
【瓢箪越しの資料館】 【資料館】 【木下藤吉郎秀吉の像】
ここに城建てた頃、こんな格好はしていないかと。
【瓢箪】
ここでは絵馬の変りが瓢箪です。
【太閤秀吉・出世の泉】
どんなけ秀吉にあやかりたいのか。
【資料館】
【冠木門・虎口】 【洲股城築城犠牲者の墓】
本物かどうかは不明。
【資料館】
【豊国神社】
秀吉と結びつきを持たせたかったのであろう。
【馬防柵】 【城址碑と資料館入口】
【墨俣城模型】
実際にはこんな感じであったのであろう。これは前野家古文書を基に作られたようである。
【最上階より見る長良川上流側】 【最上階より見る長良川下流側と犀川】




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