城名 小松城(別名:芦城、小松の浮城)
住所 〒923-0903
石川県小松市丸の内町
入場時間
入場料
指定文化財 小松市指定文化財
城郭構造 梯郭(渦郭)式平城
天守構造 代用三重櫓(非現存)
築城主 若林長門守
築城年 天正4年(1576)
主な改修者 前田利常
主な城主 若林長門守、村上頼勝、丹羽長重、前田利常
位置 北緯36度24分45.44秒
東経136度26分36.44秒
地図 天守台
本丸跡
二ノ丸跡
三ノ丸跡
本丸堀跡石垣
【概要】
小松城の歴史は、天正4年(1576)、織田勢力の加賀侵入に備えて一向一揆の部将若林長門守により築いた城砦に始まる。天正7年(1579)、織田信長の命を受けた柴田勝家により一向一揆は鎮圧された。その後、城主は村上義明、丹羽長重(長秀の嫡子)と交替。関ヶ原合戦で西軍に属した長重は、合戦後、所領没収となり、小松城は前田利長の所領となって城代が置かれた。元和元年(1615)の一国一城令で小松城は一旦廃城となる。しかし寛永16年(1639)、加賀藩3代藩主前田利常の隠居城として例外的に幕府から認められ復活したのである。

小松城は、梯川の蛇行によって作られた沼地を利用した平城であり、川の水を引き入れた堀の中に8個の島が兵法に従って配置されている。城の面積は、金沢城の倍近い約56万uに及ぶ広大なものである。城地の約30%を堀が占めており、その様は「小松の浮城」とも呼ばれ類稀な景観をもつ名城であった。

表向きは利常の隠居城であるが、外敵に対する防備を堅くした渦郭式といわれる構造である。河川を巧みに利用した反面、水害に対する備えも必要で、盛土の他、随所に堅牢な石垣による護岸を行っていた。

この名城も、幕末にはすでに取り壊しが始まり、明治以降、売却や埋め立てなど土地改良が急速に進められた。現在地は、往時の石垣を唯一実見できる場所である。本丸櫓台石垣と北側に隣接して井戸跡が残り、西側の道路に面して堀石垣の一部が残存している。
(城内説明板を参考に編集より)

【逸話】
小松城は、かつて明智光秀が朝倉義景から、要害の地はどこかと尋ねられた際、「加賀にては小松あたり」(明智記)と答えたほどの要害の城である。同様のことは「北陸無双ノ城郭」(「小松軍記」)という記述にも窺われる。


【感想】
雨の中の探訪で、折角の芦城公園の庭園も足早に見て、小松高校前を通りその敷地に沿って進んで行くと突然この天守台が目に入ります。
思っていた以上に大きく造りのしっかりした天守台でした。
天守台の上に登れなかったことは残念ですが、よくここだけ残ったものだと感慨深いものがあります。天守西側の道沿いには本丸の堀石垣が保存状態も良く見られるので、訪れた際には忘れないように見て下さいね。


登城日 2014年1月12日(日)
LINK  まるごと・こまつ・旅ナビ〜小松城天守台〜
小松城-Wikipedia
城主家紋 【梅 鉢】
(称菅家流)
前田氏家紋

                      

探訪

※説明板より
【奉行所跡】 【七十間長屋跡】 【芦城公園】
小松城三の丸跡
【三ノ丸跡】 【前田利常公像】 【前田利常公像】
【芦城公園内庭園】 【芦城公園内庭園】 【三ノ丸跡に建つ図書館】
【二ノ丸跡】
現在は県立小松高等学校が建っている。
【本丸跡】
現在は小松高校のグランドになっている。
【天守台】
【天守台】 【天守台の石段】 【天守台横の井戸(白山水井戸)】
【天守台】 【本丸堀跡石垣】 【鰻橋御門(移築現存門)】
市内「来生寺」山門になっている。




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