城名 高天神城(別名:鶴舞城)
住所 〒437-1434
静岡県掛川市下土方
入場時間
入場料
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 今川了俊
築城年 15世紀初頭
主な改修者 福島(くしま)氏、武田勝頼
主な城主 今川氏、福島氏、小笠原氏、岡部氏
位置 北緯34度41分54.49秒
東経138度2分6.98秒
100名城
スタンプ
スタンプ
設置場所
大東北公民館
住所 静岡県掛川市下土方267-1
時間 9:00〜17:00(休館日 月曜、12月28日〜1月4日)
大東北公民館が休館日のみ下記施設で対応
1.掛川観光協会ビジターセンター「旅のスイッチ」
2.掛川南部観光案内処
登城日 2014年9月15日(月)
LINK 掛川市観光情報公式サイト-高天神城-
Wikipedia〜高天神城〜
城主家紋 【三階菱】
(清和源氏義光流)
高天神・小笠原氏家紋
【左三つ巴】
(藤原南家工藤氏流)
岡部氏家紋
【歴史】
静岡県掛川市上土方・下土方にある鶴翁(かくおう)山(標高132m、比高約100m)の頂に築かれた中世の山城で、山自体が急斜面で、四方に延びる尾根筋に複数の曲輪を効果的に配置した複雑な縄張りをもち、戦国時代には「高天神城を制する者は遠江を制する」ともいわれるほどの戦略的な拠点に建てられた堅城だった。

平安時代末期の源平合戦の際に築城されたとの伝承があるほか、応永23年(1416)の上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱に際し、鎌倉方を支援した遠江の領主、今川了俊が築いたとされるが、くわしい築城年代はわかっていない。

戦国時代には今川氏の有力武将の福島(くしま)氏の居城だった。城主の福島正成はたびたび甲斐に侵攻し、武田信虎を悩ませた。
正成は天文5年(1536)、花倉の乱(今川氏の後継者争い)で玄広恵探に与し、梅岳承芳(のちの今川義元)に敵対し、この乱に敗れ、甲斐に逃れた正成は信虎により殺害されている。正成の子は北条氏綱を頼り相模に逃れ、長じて北条綱成を名乗って北条氏の有力武将となった。その後、今川義元は城主のいなくなった高天神城に小笠原長忠親子を配した。

義元の死後の永禄12年(1569)、高天神城は徳川家康の属城となった。
元亀2年(1571)、武田信玄は2万の大軍でこの城を攻撃したが奪えず、信玄の後を継いだ武田勝頼が天正2年(1574)に開城させた。勝頼は同城を改修して遠江の拠点としたが、長篠の戦いで大敗した後の天正9年(1581)、織田信長の支援を得た徳川家康の包囲攻撃を受けて落城した。落城後は廃城となり、その後も城郭として整備されることはなかった。

昭和50年(1975)に国の史跡に指定されたが、南に延びる尾根を分断する大規模な堀切りの部分などが、平成9年(2007)に追加指定された。

現在、城跡には曲輪、土塁、掘割の遺構が残っている。

【感想】
JR掛川駅よりバスに乗り約30分、最寄りバス停の「土方」で下車し、バス停付近位は車用の看板が出ているので、まずは追手門を目指しましたが、ここから15分歩きます。
ようやく来れました小説などでは、よく出てくる高天神城。遠くから見ると普通の山のように感じましたが、登ってみるとわかります。尾根伝いはそれほど急ではありませんが、その脇はすぐ谷になり急峻な崖になっています。これは攻め手は隊列を狭く組まないと攻め上がれないのですからたまったものでは無いことがよくわかりました。
城自体はそれほど広いわけではありませんが、一城別郭といわれる由来もその城の構造である二つの峰(東ノ峰・西ノ峰)から呼ばれることも実感しました。

                      

探訪

※高天神城創造図

※高天神城略図
【高天神城 追手門入口】
奥に見えるのが鶴翁山で高天神城址がある。
【追手門駐車場】 【追手門入口】
【高天神城指標】
鳥居をくぐるとここからが大手道となります。
【追手門跡】
武田勝頼が攻めた際、内藤昌豊、山県昌景の精鋭が城門に突入し城兵死傷75名、武田勢死傷253名の激戦が繰り広げられた。
【追手門-着到櫓間の道】
追手門を過ぎると目の前には着到櫓がある。攻め手は追手門の手前から、そして抜けた後も着到櫓からの攻撃を受けることになる。
【着到櫓跡】
名前からすれば城主の到着を知らせるための櫓であろうが、合戦時は大手道を守備する櫓であったであろう。
【大手道】 【大手道の分岐@
左に行けば二ノ丸、西ノ丸がある西ノ峰方面へ、右に行けば三ノ丸、本丸がある東ノ峰へつながる。
【三ノ丸跡】
城内の武将が宿営したところであるが、元亀2年より天正2年にかけて、武田勢が来攻当時、小笠原与左衛門清有が三ノ丸の大将として、城兵250余騎を従えて守備した。別名「与左衛門平」とも言う。
【土塁】 【三ノ丸からの眺望】
【大手道の分岐A
右に折れれば本丸へ、直進すれば御前曲輪に繋がる。
【御前曲輪跡】
観光用の人形が置かれている。
【元天神社】
【御前曲輪からの眺望】 【本丸虎口】
分岐
Aがここに出る。
【本丸跡】
【本丸跡の城址碑】 【本丸西側虎口】 【土塁跡】
【的場曲輪跡(矢場)】 【大河内政局石牢道入口】 【大河内幽閉の石風呂(石窟)】
武田勝頼来攻し落城した際、城主小笠原長忠は下りたものの軍監大河内源三郎政局独り留まり勝頼の命に服さず幽閉された。8年後、家康が城を奪還し牢内の政局を救出した場所。
【分岐@からの道】 【鐘曲輪へと続く道】
この場所の右手が的場曲輪となる。
【玉場】
的場曲輪の下の曲輪で”玉場”と呼ばれ、鉄砲の練習をした場所と思われる。
【鐘曲輪跡(分岐B)】
東ノ峰と西ノ峰に分かれる場所、北側には搦手道が伸びる。
【井戸曲輪跡】 【かな井戸】
井戸曲輪の名のもととなった井戸。
【尾白稲荷大神】 【高天神城合戦将士英魂之碑】 【二ノ丸跡】
【袖曲輪跡】 【虎口】 【本間・丸尾兄弟墓碑、戦死の址】
武田勝頼来攻時、堂の尾曲輪の物見櫓にて城兵を指揮していた二ノ丸守将本間八郎三郎氏清は穴山梅雪配下の西島七郎右衛門の銃弾に倒れた。続いて弟の丸尾修理亮義清が兄に代わり指揮をしたが狙撃により胸部を打たれ落命した。墓碑は後裔の本間惣兵衛が元文2年(1737)に建てたもの。
【堂の尾曲輪一番目の堀切跡】
高天神城で緩やかな尾根の上に築かれた堂の尾曲輪を区切るための堀切。
【堂の尾曲輪跡】
左の堀切から登ることができる。
この曲輪には物見櫓が築かれていた。
【堂の尾曲輪・二番目の堀切跡】
【堂の曲輪下の土橋】
本間・丸尾兄弟墓碑、戦死の址のすぐ下の土橋で両側は堂の尾曲輪に沿って長い空堀となっている。
【土橋右側の横堀】 【土橋左側の横堀】
【堂の尾曲輪最北端】
物見櫓が建っていたとするのであればこの場所か?
【井戸曲輪から見た西ノ丸】 【西ノ丸跡】
西ノ丸は岡部丹波守が守備していた時期があり、丹波曲輪とも呼ばれる。
【高天神社】
西ノ峰の最高位置に建つ神社。この部分も含めて西ノ丸であろう。
【高天神社裏の土塁】 【高天神社裏の堀切】
【高天神社裏の堀切】 【馬場跡(馬場平)】 【甚五郎抜け道】
天正9年3月落城のとき、23日早朝、軍監横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城の模様を報告するため、これより西方約1kmの尾根続きお剣路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去った道。別名「犬戻り猿戻り」とも言う。
【甚五郎抜け道】 【搦手道】
鐘曲輪(分岐
B)に繋がる搦手道。
【三日月井戸】
【三日月井戸】
今も湧いているのか水が流れており、金魚が数匹泳いでいた。
【搦手道】
距離は短いが急峻な石段が続く。
【搦手門跡】
【搦手道の城址碑】 【林の谷】 【甚五郎抜け道の出口】
【板倉と岡部の碑】
左:板倉喜蔵定重之墓、右:岡部丹波守討死碑
なぜ両方墓で無いのか不思議である。
【搦手口】




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