城名 天筒山城(別名:天筒城)
住所 〒914-0072
福井県敦賀市金ヶ崎町
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 足利氏
築城年 南北朝時代頃
主な改修者 朝倉氏
主な城主 足利氏、寺田氏(朝倉氏家臣)
位置 北緯35度39分41秒
東経136度4分54秒
地図 主郭
見張台跡
【概要】
天筒山は中世の戦いの舞台となった金ヶ崎城の枝城で、金ヶ崎の南、天筒山(171.3m)に構築されている。金ヶ崎城ほど有名ではないが、城の堅牢さでは金ヶ崎城を上回ると考えられ、一体となってこそ本来の機能が発揮出来る構成である。

主郭は敦賀湾はもとより、敦賀市内、旧北陸道、更に金ヶ崎城の全容も見渡せ、こちらが本城と行ってもいいくらいである。稜線伝いに金ヶ崎城が繋がっている。

中世南北朝期の新田義貞と越前守護足利(斯波)高経を中心とする足利軍との抗争や、斯波氏の内訌(長禄合戦など)、織田信長の越前侵攻(朝倉氏攻撃)でも、戦の舞台となっている城である。
太平記には、金ヶ崎城に籠もる新田義貞に足利軍が対峙する記述の中で、「巽の方に当たれる山一つ、城より少し高ふして、寄手城中を目の下に直下す」という記述があり、ここを拠点にして足利軍が新田軍を攻撃したことが分かる。この他では、信長の越前侵攻(朝倉攻撃)以外あまり記録には出てこない。

元亀元年(1570)4月20日、織田信長は家康軍を加え近江坂本を出発、越前侵攻(朝倉攻撃)に乗り出し、若狭熊川を経て、23日佐柿の粟屋越中守勝久の館に着陣し、越前の入り口にあたる敦賀攻撃の準備に取り掛かった。

敦賀は朝倉宗滴の流れをくむ敦賀郡司家が代々治め、この時は朝倉中務大輔景恒が郡司を務めていた。景恒は金ヶ崎城に立て籠り、隣接する天筒山城には寺田采女正を守備に当たらせていた。
一方朝倉義景は一乗谷の守備に2,000余、国内守備に4,500余りをあて、自らは14,000の兵にて敦賀に向かったが、その歩みは遅かった。

25日10万を越える織田軍は一斉に天筒山城の攻撃にかかった。要害の地である天筒山代の攻防は大激戦となったが、信長軍は樫曲に回り込み湿地帯から攻め上がり、双方に多大な犠牲を出しながら、ようやくこれを落とすことに成功した。信長の重臣森可成の嫡男可隆(蘭丸の長兄)が、討ち死にしたのがこの戦いで、一番乗りを目指し深入りしすぎたのが原因とされる。初陣で19歳であったと言われる。

天筒山城を落とされた景恒は、援軍の到着が遅れる中、不利を悟り、翌日には金ヶ崎城を開城、織田軍に渡し退出した。ところが26日、突然浅井長政が離反したため、信長は敦賀を身一つで脱出し、京都に逃げ戻る羽目となる。しかし、開城に追い込まれた朝倉景恒は自責の念にかられ、永平寺に入り、失意のうちに翌元亀2年9月28日病没した。

天筒山城はその後廃城となったが、現在では公園化されており、主郭から南に伸びる南郭(標高138m)、更に余座郭(標高80m)と大きく4つの郭から構成されており、かなりの規模となっている。
特に主郭部は4,50mの幅、長さを持つ3つの郭から構成され、更にその北側には見張りの櫓台跡がある。おそらく織田軍の侵攻を予測して、朝倉氏によってこの時期大幅に拡張されたのではなかろうか。また、郭に向かう稜線には堀切跡も明瞭に見られる。
(「新越前若狭城跡考」による)


【感想】
城址はハイキングコースにもなっているので、散歩がてらに登っている人も多い。登城口にはクマ注意等の看板も見られるので熊鈴を忘れないようにしたほうが良い。
遺構的には南郭側には、浅くなっているが堀切等も残っている。南側を見た跡は主郭から金ヶ崎城に向けて山の稜線を伝っていくがそこにも堀切なども見られそこが金ヶ城との境界線になっていると思われる。


登城日 2015年4月30日(木)
LINK 
城主家紋 【足利二つ引】
(清和源氏義家流)
足利氏家紋
【三つ盛木瓜】
(日下部氏流)
朝倉氏家紋

                      

探訪

※金ヶ崎(天筒山)公園案内図より(加筆あり)
【天筒山】 【登城口】 【主郭と南郭分岐となる場所】
左手が主郭、右手方向が南郭方面
【東部・南部遺構入口】 【東部・南部遺構】 【郭1】
左手の藪が郭跡になる。
【堀切1】 【堀切1】 【東屋(休憩所)】
【切岸1】 【郭2】
道に挟まれた部分が郭2になる。
【天筒山南端の舞崎遺跡】
【天筒山南端の舞崎遺跡】
@二千年前頃(弥生時代中期)の見張台を持った村
A4世紀初め頃(古墳時代前期)の古墳
B8世紀頃(奈良時代)の小さなお堂跡
C12世紀頃(平安時代末期)の経塚
D16世紀(戦国時代)天筒山城の南の郭
【郭2南側】 【堀切2】
【堀切3】 【主郭南側】 【主郭中央部】
休憩所やトイレがある。
【主郭北側】
展望台があり開けた場所。
【展望台からの眺望、中池見方面】 【展望台からの眺望、敦賀湾・金ヶ崎城方面】
【主郭切岸】 【見張台跡】 【北西郭堀切】
金ヶ崎城址へ通じる尾根伝いにある。




Back



inserted by FC2 system