powered by egmap.jp |
城名 | 神戸城(別名:本多城) | ||
住所 | 〒513-0801 三重県鈴鹿市神戸5丁目 |
|||
入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 県指定史跡 | |||
城郭構造 | 輪郭式平城 | |||
天守構造 | 5層6階(非現存) | |||
築城主 | 神戸具盛 | |||
築城年 | 天文年間(1532-1555) | |||
主な改修者 | 神戸信孝、本多忠統 | |||
主な城主 | 神戸氏、石川氏、本多氏 | |||
位置 | 北緯34度52分44.75秒 東経136度34分38.73秒 |
|||
地図 | 1 | 天守台 | ||
2 | − | |||
3 | − | |||
4 | − | |||
5 | − | |||
【歴史】 三重県鈴鹿市にあった戦国時代から江戸時代にかけての平城で三重県指定史跡。 戦国時代には伊勢国北部の拠点となった城で、江戸時代には、神戸藩の藩庁が置かれた城である。 天文年間(1532〜55年)に、神戸具盛(神戸氏第4代)が築城し、神戸城の南西約500mにあった澤城(神戸西城)から居城を移した。永禄11年(1568)の織田信長による伊勢侵攻で、城主の神戸具盛は信長三男の信孝を養子(嫡子)として迎えいれることで信長と和睦した。 天正8年(1580)、神戸(織田)信孝は城の改修を行い、野面積みの天守台に金箔瓦を用いた5重6階の大天守を築いた。この天守は、北東に小天守と南西に付櫓がある複合連結式であったことが確認されている。 城主の信孝は本能寺の変後、岐阜城に移ったが豊臣秀吉と対立し、兄の北畠(織田)信雄によって尾張野間で自刃させられた。その後、信孝が築いた神戸城の天守は文禄4年(1595)に解体され、桑名城(桑名市)に移築され三重櫓(神戸櫓)となった。 天正年間(1573〜93年)には、生駒親正、滝川雄利、水野忠重が城主をつとめたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い時には滝川雄利が城主として返り咲いていた。雄利は西軍(豊臣方)に属したため、戦後に改易となり、一柳直盛が5万石で入封・入城した。直盛は寛永13年(1636)に伊予国(愛媛県)の西条藩に国替えとなり、旧領は天領となったことから、城は廃城・破却処分となった。 慶安3年(1650)、石川総長が1万石で当地に封じられて神戸藩が再興され、享保17年(1732)には本多忠統が2万石で封じられた。忠統はしばらくの間、陣屋を居館としていたが、延亨3年(1746)に幕府から築城の許可を得て城の再建に着手し、その2年後に完成させた。以降、明治維新に至るまで、本多氏が7代にわたって同城を居城とした。明治8年(1875)、神戸城は廃城・解体処分となった。 現在、旧本丸など城の中心部は神戸公園、二の丸跡は、三重県立神戸高等学校の敷地になっている。神戸公園内には天守台の遺構が現存している。また、神戸城の太鼓櫓が市内の蓮花寺に移築され鐘楼として現存、大手門が四日市市の顕正寺の山門として残っている。 【感想】 JR鈴鹿駅、近鉄鈴鹿市駅から都に15分程度の住宅街の中に城址がある。城址の殆ど(二ノ丸・三ノ丸)は鈴鹿高校になっており、残る遺構は本丸にある天守台となる。 天守台は野面積みでその無骨さが何ともいい感じでした。 |
登城日 | 2015年5月4日(月) | ||
LINK | すずかし観光ガイド-神戸城跡と神戸公園- | |||
神戸城-Wikipedia- | ||||
城主家紋 | 揚羽蝶 (桓武平氏関氏流) 神戸氏家紋 |
|||
立ち葵 (藤原北家兼通流) 康俊系本多氏家紋 |
※城内説明板より |
||
【神戸公園】 | 【神戸城址切岸】 | 【本丸跡】 |
【神戸高校(二ノ丸・三ノ丸跡)】 | 【神戸城址説明板】 | 【本丸土塁】 |
【本丸土塁上部】 | 【野面積みの天守台】 | 【天守附櫓入口】 |
【天守入口】 | 【野面積みの天守台石垣】 | 【神戸城址天守台碑】 |
【本丸堀跡】 | 【天守台】 | 【天守台】 |