城名 興国寺城
(別名:根小屋城、杜若城、久窪城、深田山城、高国寺城)
住所 〒410-0309
静岡県沼津市根古屋
入場時間
入場料
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 不明
築城主 不明
築城年 文明年間(1469〜87年)(推定)
主な改修者 今川義元
主な城主 今川氏、北条早雲、武田氏、松平清宗、天野康景
位置 北緯35度8分29.22秒
東経138度48分25.35秒
地図 本丸
二ノ丸
三ノ丸
大堀切
北曲輪
【歴史】
愛鷹山南麓に広がる丘陵に築かれ、戦国大名の小田原北条氏が誕生した城である。丘陵上に北の丸・本丸・二の丸・三の丸が連郭式に配されていた。文明年間(1469〜87年)の築城とも推定されているが、正確な築城年は不明。

今川氏の客将であった伊勢新九郎盛時(のちの北条早雲、伊勢新九郎長氏とも)は、文明8年(1476)の駿河守護今川義忠戦死後に起こった今川氏の家督争いで、今川氏親の相続を実現させたことからこの城を与えられ、初めて城持ちの武将になった。

盛時は、長享年間(1487〜89年)に堀越公方の子、足利茶々丸を滅ぼして伊豆を平定し、居城を韮山城に移し、さらに相模に進出して小田原城を拠点とした。盛時の相模進出後、興国寺城は今川氏の領有に戻され、今川氏が北条氏と対立した河東一乱の際、駿東と伊豆の押さえとしてこの城を重視した今川義元により大改修が行われた。このころから、今川・武田・北条各氏が興国寺城と
一帯の領有を争うようになり、城主がめまぐるしく変わったが、最終的には永禄12年(1569)に駿河に侵攻した甲斐の武田信玄により落城、元亀2年(1571)には武田氏の城となった。天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、興国寺城は徳川家康の属城となり、慶長6年(1601)には松平清宗に続いて天野康景を入城させた。しかし、康景の家臣が天領(幕府直轄領)の農民を殺害したことから
改易となり、それにともない、興国寺城は廃城となった。

本丸跡は周囲にめぐらした土塁が、さらに、その内部には高土塁を兼ねた天守台跡や石垣の一部が残っている。昭和57年(1982)には天守台の発掘調査が行われ、それぞれ約7m×8mの東・西2棟の建物の礎石が発見されている。本丸と北曲輪の間には、尾根を分断する大空堀跡が、三の丸南端には土塁跡が見られる。


【感想】
JR原駅から北に約3km、興国寺通りを北上すると約30分の場所にあります。
城址手前の根小屋交差点に今後の整備計画をします看板が置かれているが、本当にここまで整備するのでしょうかね。
城址は一つ一つの規模が大きく、本丸土塁の大きさには驚かされます。そしてその北画には大堀切があり、またそれも大規模で驚かされます。


登城日 2015年7月12日(日)
LINK  沼津市HP-興国寺城-
Wikipedia〜興国寺城〜
城主家紋 【三つ鱗】
(伊勢平氏流)
後北条氏家紋
【三階松に三日月】
(藤原南家為憲流)
遠江天野氏家紋

                      

探訪

※興国寺城跡整備計画図(加筆あり)
【弁天社】
根小屋交差点、三ノ丸跡脇にあり、ここが当時濠だったことを示すかのようにある。
【三ノ丸南端の土塁】 【根小屋交差点】
ここから北側(正面)が城址となる。
【三ノ丸跡】
城址中央を縦断する舗装道。城址がこれにより左右に分断されている。
【三ノ丸跡西側】
正面の中央から左側は天然の濠になって下り、西側船着き場があった。
【三ノ丸跡西側】
【三ノ丸跡】 【二ノ丸跡西側からみた本丸方向】 【二ノ丸跡東側】
【本丸跡と土塁】
本丸には巨大な土塁が残る。
【本丸西側土塁・北側土塁】 【本丸西側土塁】
写っている人と比較するとその土塁の規模がわかる。
西側の土塁の高さは6mはあり、正面は10m以上あるだろう。
【本丸跡(東側)】
正面に見える土塁が石火矢台跡になる。
【石火矢台跡】 【本丸東側土塁】
本丸東側の土塁
【穂見神社】
本丸中央に位置する。
【天野康景碑】 【北条早雲碑】
【本丸土塁】 【天守台石垣】
本丸土塁上にある。
【本丸土塁】
土塁の上部に指標がありました。
天守台】
何かの建屋があったのでしょうか、礎石があります。
【天守台から見た北曲輪】
その間には大堀切がある。
【本丸西側と土塁】
本丸北側土塁上】
この写真をとった場所は当時西櫓があった場所のようです。
【本丸東側土塁】 【大堀切】
天守台と北曲輪との間にある。高さは10m以上はある。
北曲輪側切岸】 【北曲輪より見た天守台】 【北曲輪跡】
先に見えるフェンスの向こうに東海道新幹線が通っている。
大堀切】 【堀切内の横穴】
何かのお墓だったのでしょうか?
【大堀切西側出口】
当時この先は低湿地だったようです。
低湿地跡】
城址西側は低湿地だったようで船着場が置かれていた。
【城址北側に通る東海道新幹線】 【北曲輪跡】
城址側は藪化していたので舗装道路側から行ってみた。
北曲輪跡】
正面には天守台跡が見える。
【大堀切東側出口】 【蓮池跡】
城址東側は藪がひどい状態であるが、当時は蓮池があった。こちらにも船着場があったようです。




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