城名 鳥羽山城(別名:鳥羽山砦)
住所 〒431-3314
静岡県浜松市天竜区二俣町二俣
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 山城
天守構造 不明
築城主 今川氏か?
築城年 永禄年間(1558〜1569)
主な改修者 堀尾宗光
主な城主 大久保忠世、掘尾宗光
位置 北緯34度51分29秒
東経137度48分20秒
地図 本丸跡
大手門跡
東門(通用門)跡
搦手門跡
笹曲輪跡
【概要】
鳥羽山城は、東西500m以上におよぶ標高108mの独立丘陵を巧みに加工して築城されています。本丸をめぐる土塁や石垣が良好な状態で残されているほか、本丸の内部では、発掘調査によって礎石建物や庭園が確認されています。また、本丸に至る大手道は石垣で荘厳化されており、幅6mを越える破格の規模を誇ります。こうした特徴から、鳥羽山城は迎賓機能を備えた領主の居館だったと推定出来ます。一方、隣接する二俣城では、天守が築かれ、瓦葺の門が建てられるなど、軍事的な機能に優れた本格的な城郭が整備されます。このように、鳥羽山城と二俣城はその性格が対照的であり、「別郭一城」とよばれる一連の城であることが、二つの城の特徴から読み取ることが出来ます。

【歴史】
鳥羽山城と二俣城は、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いを契機に今川氏によって築かれたと考えられます。永禄11年(1568)今川氏の滅亡により、両城は徳川家康が領有することになりますが、三方ヶ原の戦いがあった元亀3年(1572)には武田信玄によって攻略されました。長篠の戦いがあった天正3年(1575)まで徳川方と武田方によって両城をめぐる激しい攻防戦が展開され、武田方の二俣城を攻める際には鳥羽山城に徳川方の本陣が置かれました。

その後、天正8年(1590)まで鳥羽山城と二俣城は徳川方が領有しました。大久保忠世が城主のとき家康の関東移封に伴い豊臣系の大名である掘尾氏が遠江に入ると、浜松城主掘尾吉晴の弟宗光が二俣城主となります。この頃に鳥羽山・二俣両城は石垣が築かれるなど現在見られる姿に整備され、鳥羽山城は迎賓機能を備えた領主の生活の場となったと見られます。

こうして整備が進められた鳥羽山城と二俣城でしたが、関ケ原の戦いがあった慶長5年(1600)以降は、戦略拠点としての重要性は薄れ、廃城となりました。
(城址案内板より)


【感想】
本丸を中心とした周囲には、腰曲輪などを配置し、本丸の周囲を腰巻石垣、鉢巻石垣が巡っており、本丸下の道には石垣を見るための側道があるので一周してみるといろいろ見ることが出来ます。腰巻石垣と鉢巻石垣をこんな狭いエリアで同時に見られることはなかなかないので良かったです。


登城日 2015年10月31日(土)
LINK  天竜観光協会HP-鳥羽山城址-
Wikipedia〜興国寺城〜
城主家紋 【上り藤に大文字】
(藤原北家宇都宮氏流)
大久保氏家紋
【抱き茗荷】
(高階氏後裔)
堀尾氏家紋

                      

探訪

※案内板より(加筆あり)
【腰曲輪】
現在は駐車場となっている。
【大手側登城口】 【堀切2】
【大手道跡】
道幅が6m以上ある。
【東曲輪跡】 【東曲輪の武者走り】
【本丸東側石垣】 【本丸東門周辺の石垣】 【本丸東門の暗渠】
【東門(通用)跡】 【南2曲輪より見た南1曲輪方向】
大手道を上がって左側には南2曲輪があり、写真左手の石垣上が南1曲輪になる。
【南1曲輪の虎口】
ここが昔のものかはわからない。
【大手門跡】 【大手門の暗渠】 【本丸跡】
【本丸の展望台】 【展望台からの眺望】
眼下に天竜川が見える。
【枯山水庭園跡】
山城の本丸に庭園を設けた例は少なく、鳥羽山城が迎賓機能を備えた居館があったことを示すものとして注目されます。
【本丸土塁上】 【東門の木橋】 【搦手門跡】
笹曲輪跡】 【本丸西側の鉢巻石垣】 【本丸西側下の腰曲輪】
本丸西側下の腰曲輪に築かれたスライダー】 【本丸西側下の腰巻石垣】 【本丸下南西隅の腰巻石垣】




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