城名 二俣城(別名:蜷原城)
住所 〒431-3314
静岡県浜松市天竜区二俣町二俣
入場時間
入場料
指定文化財 浜松市指定史跡
城郭構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主 不明(松井氏か?)
築城年 不明(16世紀前半〜中期)
主な改修者 大久保忠世、堀尾宗光
主な城主 松井氏、鵜殿氏、中根氏、依田氏、大久保氏、掘尾氏
位置 北緯34度51分43.29秒
東経137度48分32.16秒
地図 天守台
本丸跡
二ノ丸跡
蔵屋敷跡
南曲輪跡
【概要】
天竜川と二俣川に挟まれた城山と呼ばれている小山に築城されたもので、本丸の標高は約80m、比高約40m。山を階段状に削り取り、本丸、二の丸のほか、外曲輪、北曲輪、南曲輪、蔵屋敷が配されていた。

戦国時代の初めに、駿河の今川氏が遠江の斯波氏と争った際に、今川氏が拠点となる城館(笹岡古城)を築いたのがその起源ではないかとされるが、その後、今川義元の治世に、被官の松井氏が天龍川を見下ろす場所(現在の城址)に城を築いたと推定されている。しかし、築城年・築城者は特定されていない。城主の松井宗信は、永禄3年(1560)5月の桶狭間の戦いで、当主の義元とともに討死し、その子松井宗恒が跡を継いだ。

永禄12年(1569)、今川氏が甲斐の武田氏と三河の徳川氏によって滅ぼされると、城主の松井氏は武田信玄に従属したが、信玄と敵対した徳川家康の攻撃を受け降伏・開城、その後、徳川氏の城となった。家康は二俣城に鵜殿氏長、次いで中根正照を城代として配置し、武田氏の攻勢に備えた。元亀3年(1572)10月、信玄は上洛を目指して甲斐を発ち、信濃から三河に侵攻。中根正照の守る二俣城は武田勝頼を大将とする武田の軍勢の攻撃を受けた。

『三河物語』によると、武田勢は城の峻険さと徳川勢の防戦に攻めあぐねたが、水の手を断ったことから形勢が動き始め、籠城する徳川勢は戦意を失って落城した。二俣城を落城させた武田軍は西上を開始、同年12月23日には、浜松城から出撃した家康勢との間に三方ヶ原の戦いが起こった。陥落した二俣城には武田方の依田信蕃が城主として入城した。信玄の死後、家康は城の奪還を開始したが二俣城は持ちこたえ、その間に、武田勝頼により高天神城を奪われる事態も起こっている。
武田氏が天正3年(1575)5月21日の長篠の戦いに敗北すると、家康は攻勢を強め、諏訪原城を落城させて二俣城に迫った。武田方の城兵は城をよく守ったが、同年12月24日、城将の依田信蕃は徳川方の開城勧告を受け入れ、城を明け渡して駿河の田中城に撤退した。城を奪還した家康は大久保忠世を城主として配置し、城の大規模な改修・改築工事を行った。その後、二俣城は何度か武田氏の攻撃を受けたが、落城することはなかった。

家康は正妻・築山御前と嫡男の信康が武田方に内通したとして織田信長から処罰を迫られ、築山御前が殺害された後、信康は二俣城に幽閉され、その後切腹している。

天正18年(1590)、家康が関東に移封になると、浜松城には堀尾吉晴が入城し、二俣城はその支城となったが、慶長5年(1600)に城主の堀尾氏の出雲転封に伴い廃城となった。

第二次世界大戦後、城一帯は公園として整備され、現在に至っている。

現在、城跡には天守台・石垣・土塁などの遺構が残っている。石垣が使われた天守台は、徳川氏が武田氏と対峙していた天正年間(1573〜93年)に大久保忠世によって築かれたと推定されているとも、文禄年間(1593〜1596)の築造で、浜松城主掘尾吉晴の弟堀尾宗光の手によるものとも言われている。
(参考文献:「日本の城がわかる事典」より)


【感想】
天守台のイメージが強い城址でしたが近年西曲輪周辺の発掘調査により新たな石垣が発見され注目を浴びている。その石垣は防御用としてではなく天竜川・二俣川を行き交う舟に対しての見せる石垣で、使用されている石材は真っ白な石灰質のものを使用しているのには驚きました。



登城日 2015年10月31日(土)
LINK  天竜観光協会HP-二俣城址-
Wikipedia〜二俣城〜
城主家紋 【岩に根笹】
(清和源氏為義流)
松井氏家紋
【三つ蝶】
(清和源氏満快流)
依田氏家紋
【上り藤に大文字】
(藤原北家宇都宮氏流)
大久保氏家紋
【抱き茗荷】
(高階氏後裔)
堀尾氏家紋

                      

探訪

※案内板より(加筆あり)

※案内板より
【登城口】 【城址碑と案内板】 【堀切】
【堀切】 【北曲輪跡】
現在は旭ヶ丘神社が建っている。
【喰違い虎口】
この箇所は近代の改変があり、往時の様子は判然としない。虎口そのものは搦手とかいうものではなく、北に位置する北曲輪への通路を扼すものであった。写真を撮っている場所は馬出し跡と言われている。
【本丸跡】 【天守台】
野面積みの独立した天守台は、北側に石段の通路と付櫓台状の小さな平場を持っている。天守台状には礎石は見られない。
【一ノ門、枡形門跡】
【一ノ門跡の石垣】 【枡形内部と土塁】
二ノ丸から本丸へ入るための枡形門を形成していた。
【二ノ丸跡】
【二ノ丸跡に建つ城山稲荷神社】 【虎口追手】
写真右手は櫓台。
【櫓台上より見た虎口追手】
【二ノ丸の土塁上】 【蔵屋敷跡の石垣】 【二ノ丸と蔵屋敷との間の堀切】
【竪堀】 【蔵屋敷から南曲輪へ降りて来る城道】 【西曲輪跡】
【西曲輪の石垣】
2014年に発見された石垣、この石垣は城を防備するためよりは天竜川と二俣川を利用した交通や物流の要衝として重要視されており、川から見ると太陽光を浴びてキラッと光り輝くよう白い石材を使用し見せるための石垣だったようです。
【西曲輪跡から見た井戸曲輪跡と天竜川】
現在は二俣河口が河川改修により移動したため、天竜川だけが城跡の下を洗うように流れている。
【西曲輪の西端の石垣】
2015年に発見された石垣、こちらも2014年に発見された石垣同様に見せるための石垣だったようです。




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