城名 高根城(別名:久頭郷城、久頭合城)
住所 〒431-4102
静岡県浜松市天竜区水窪町地頭方
入場時間
入場料
指定文化財 浜松市指定史跡
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 奥山氏
築城年 15世紀前半
主な改修者 武田氏
主な城主 奥山氏
位置 北緯35度8分50秒
東経137度51分59秒
地図 本曲輪跡
二ノ曲輪跡
二ノ曲輪跡
二重堀切
木橋
【概要】
高根城は遠江最北端に位置する山城で、標高420m、比高150mの通称三角山の山頂部を中心に築かれている。城址からは、水窪町中心部及び北遠江と南信濃を結ぶ主要街道を見下ろすことが出来る。高根城は、この一本御主要街道を押さえることと、信濃国境警備を目的として築かれた城である。

城は山頂部に本曲輪、二ノ曲輪、三ノ曲輪を南北に配し、各曲輪には堀切が設けられている。南端部に城域を区切るために真中に土塁を挟んだ二重堀切が設けられ北側堀切は三ノ曲輪取り巻くようにU字を呈している。城の東西に位置する崖地形を生かし、巧みに堀切を取り入れたコンパクトな姿は、戦国期の形態をよく残す。

城の創築は、出土遺物から15世紀前半、地元国人領主奥山氏が築いたと考えられる。その後、今川氏親等から安堵状を得ているため15世紀末頃から今川配下に組み入れられたと思われる。奥山支配は、今川家の没落と、武田氏・徳川氏の台頭があった永禄年間後半頃に大きく変化することになる。『遠江国風土記伝』によると、永禄年中(1558〜70)に、信州の遠山土佐守に攻められ落城したと伝わる。永禄12年(1569)には、今川氏真・徳川家康双方から所領安堵状を元亀3年(1572)には武田信玄からも安堵状を得ている。遠州怱劇の頃、奥山氏内部で、今川・徳川・武田のどこに組するかで内部分裂が起こり、奥山総領家が滅亡し、最終的に傍系が武田配下に組み込まれた可能性が高い。

元亀3年8月には、武田軍が在番することが可能な城となっていたことが、高遠城の保科筑前守に対した武田信玄28ヵ条の軍役役目から判明する。天正4年(1576)遠江から武田勢力が一掃される。高根城も、この時点で廃城となったと推定される。現在見られる高根城は、出土遺物やその構造から、元亀2年〜天正4年の間に、武田氏の手によって、現在見られる姿に大きく改修されたのである。

江戸時代に、奥山氏を祭る稲荷神社が造られ、現在も山頂に稲荷が祭られている。この稲荷神社に伴う改変を若干受けているが、武田氏の原型を良く留めていると評価されよう。

平成6年〜11年にかけて、本曲輪を中心に発掘調査が実施された。この調査によって、本曲輪から礎石建物1棟、掘立柱建物2棟(内1棟は、2間×2間の井楼櫓と推定)、礎石城門1基、掘立柱城門2基、柵列1条が検出された。また本曲輪の南側下段から、掘立柱城門1基、柵列1条、木橋跡、梯子跡も確認されている。最も注目されているのは、各曲輪を結ぶ城内道が完全な形で検出されたことである。幅約1間の道は、三ノ曲輪から土橋を利用し、二ノ曲輪東中段を真っ直ぐ通り、梯子によって二ノ曲輪下段へと上がる。ここからは木橋を通り、直角に曲がり、城門をくぐり、さらに三度直角に折れ曲がり、本曲輪搦手門へと至る構造であった。全国的にみても、完全な形で城内道が検出された事例はなく、戦国期の城内構造を知る貴重な遺構と評価される。

出土遺物は、@城郭創築以前の遺物A奥山時代(15世紀前半から16世紀中頃)B武田時代(16世紀後半)C廃城後(江戸時代以降)の遺物が出土しているが、約8割がAの奥山時代の遺物であった。
発掘調査に併せて実施された整備事業で、礎石建物1棟、掘立柱建物1棟(井楼櫓)、城門4基、柵列2条が復元された。復元考証は、三浦正幸広島大学教授と織豊期城郭研究会が行った。なお、安全柵として、本曲輪を囲む土塀、二ノ曲輪、三ノ曲輪を囲む柵列が模擬復元された。また、本曲輪には管理施設が置かれている。城内道は位置はそのままで復元されたが、梯子、木橋については、安全上の観念から現代工法によった。二重堀切を渡る木橋は、遺構を保護するためと、南からの通路を確保するために設けられた新たな施設で、本来ここに位置したものではない。
(城址案内板より)

【感想】
公共機関でこの城に行くとなるとJR飯田線を使用することになるが本数が少ないためかなり敷居が高い城址ですが、中世城郭をここまで復元しているのは見事につき、武田氏の築城術のすごさを実感することが出来ます。



登城日 2015年10月31日(土)
LINK 浜松市HP-高根城跡-
水窪情報サイト-高根城-
Wikipedia〜高根城〜
城主家紋 【丸に木瓜】
(藤原北家井伊氏流)
奥山氏家紋

                      

探訪

※駐車場の案内板より
【駐車場の案内板と説明板】 【稲荷神社鳥居】 【搦手側登城道】
自然観察の小道になります。
【搦手の分岐点】 【搦手登城道】 【二重堀切】
【城内へと続く通路】 【二重堀切の薬研堀1】 【通路より見た三ノ曲輪方向】
【二重堀切の薬研堀2】 【通路からみた城内道跡と三ノ曲輪虎口】 【通路から見た本曲輪方向】
【三ノ曲輪跡】 【城内道とされる通路と二重堀切】 【三ノ曲輪跡】
【三ノ曲輪から見た二重堀切】 【三ノ曲輪から見た二ノ曲輪。本曲輪方向】 【三ノ曲輪と二ノ曲輪間の堀切】
【三ノ曲輪と二ノ曲輪間の堀切】 【堀切内から見た二重堀切端】 【二ノ曲輪へ入るための梯子】
いちだんと高くなった二の曲輪は独立しており、梯子で昇る構造だったことが確認されています。昇降の利便さは不要で迎撃するための“砦”の役割があったようです。南端には櫓が構えられていた形跡もあった。
【二ノ曲輪跡】 【二ノ曲輪より見た三ノ曲輪】 【二ノ曲輪跡】
【二ノ曲輪と本曲輪の間の堀切】 【木橋と城門】
木橋も狭いが城門部分は狭いうえに直角に曲がっている。
【木橋と堀切】
【木橋と城門】 【城門から見た二ノ曲輪・三ノ曲輪】 【城門(復元)】
【城門より見た本曲輪】 【城門からの眺望】 【本曲輪搦手門】
【復元された土塀】 【本曲輪搦手門】 【高根城主奥山氏の慰霊碑】
奥山金吾正定則、奥山大膳亮良茂、奥山能登守定之、奥山民部少輔貞益の4名の名が刻まれている。
【本曲輪から見た城門・木橋・二ノ曲輪方向】 【本曲輪跡】 【井楼櫓(復元)】
【本曲輪土塁】 【稲荷神社】
稲荷神社は、発掘前から城郭内にあった地域の稲荷神社を移設したもので、お城の歴史との直接関係はない。
【仕切門(搦手側)】
これにより大手側、搦手側を分けている。
【仕切門(大手側)】 【大手門(復元)】
大手門はコンパクトながら、格式の高い薬医門形式。
【腰曲輪から見た本曲輪】
【腰曲輪跡】 【腰曲輪からの眺望】 【眼下にはJR飯田線が見える】
【大手側登城道】
登城の小道になります。
【大手側登城口】




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