城名 広瀬城(別名:田中城)
住所 〒509-4122
岐阜県高山市国府町名張
入場時間
入場料
指定文化財 県指定史跡
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 廣瀬利治
築城年 室町後期
主な改修者
主な城主 廣瀬氏、三木氏
位置 北緯36度12分1秒
東経137度13分9秒
地図 本丸(西ノ丸)跡
二ノ丸跡
二ノ丸(本丸)跡
三ノ丸(東の丸)跡
馬場跡
【概要】
国府超名張・瓜巣地区にまたがる標高620mにある戦国期の代表的な山城です。別名田中城ともいいます。

天文年間(1532〜55)、広瀬利治は瓜巣に高堂城を築城し、戦国広瀬氏の本拠になった。しかし、高堂城は不便なため詰城とし、近くに広瀬城を築き屋敷城とした。広瀬城は、飛騨において高山城・松倉城に次ぐ大規模な山城です。

利治の子宗城の代になると、飛騨は戦国時代の最中となり、宗城は三木氏と結んで天神山城や畑佐・中山・小鷹利城などを攻略した。ところが、飛騨の統一を目指す三木(姉小路)自綱との間に不和が生じ、宗城は甲斐武田氏に通じたといわれる。しかし、天正3年(1575)長篠合戦に敗れた武田勝頼は勢力を失墜し、天正10年、織田信長の甲斐侵攻で武田氏は滅亡した。さらに、同年6月、織田信長も本能寺で横死したことで、にわかに時代は急展開を見せた。

北飛騨の雄江馬氏は飛騨統一の好機とみて、三木氏に決戦を挑んだ。対する三木氏は広瀬宗城、小島姉小路氏と連合して江馬軍を迎え撃ち、江馬輝盛を討ち取る勝利を得た。かくして、三木自綱は飛騨最大の勢力となり、翌年、宗城を松倉城に招いて謀殺、広瀬氏の城を奪い取った。このとき、宗城の嫡子宗直は越前大野城主金森氏のもとに逃れた。

天正13年(1585)、豊臣秀吉は姉小路自綱討伐の軍を起し、大野城主金森長近が飛騨に侵攻した。この陣に宗直も加わり、金森勢を先導して活躍、高堂城を守る三木勢を降したのである。しかし、高堂城は広瀬氏に返されることはなくそのまま廃城となった。

飛騨の領主となった長近は飛騨国人衆を圧迫しはじめたため、不満を抱いた広瀬宗直は江馬時政らとともに金森氏に対して一揆を起した。しかし、長近の養子金森可重に討伐され、江馬時政は討死し、宗直は信濃から近江へと落ち、のち井伊氏に仕えたと伝えられている。


【感想】
案内板以外ない場所なので探訪中は何処を巡っているのかはっきりとわからなかったが、探訪後調べると名称がはっきりしてなくいくつかの説があるようです。
城址西側の二ノ丸付近は下草もなく畝状竪堀が良くわかるようになっています。
これを見るだけでも行く価値があります。


登城日 2015年11月22日(日)
LINK 岐阜県公式HP-広瀬城跡附田中筑前守墓碑-
飛騨高山こくふ観光協会-広瀬城跡-
城主家紋 【木瓜】
(出自不詳)
広瀬氏家紋
【剣 菱】
(宇多源氏佐々木氏流)
三木氏家紋

                      

探訪

※案内図より(加筆有り) ( )内はそういう説もある名称 
【広瀬城址】 【登城口の案内板】 【登城路】
【獣柵1】
ここから行けるのは案内図の@の平場だけです。
【@の平場】 【登城路】
【獣柵2】
この先から城主要部に行けます。
【獣柵2付近の平場にあった祠】 【登城路】
獣柵2内側
【登城路】 【分岐点】
左は三ノ丸、右は田中筑前守の墓碑経由二ノ丸方面
【田中筑前守の墓碑】
【登城路】
こちら側は上に行くほど直登に近くなります。
【馬場跡】 【馬場跡】
【馬場跡北側の畝堀があるだろう場所】
伐採された木々が邪魔で確認が出来ませんでした。
【二ノ丸跡(下段)】 【二ノ丸(本丸)跡北側の畝状竪堀群】
【二ノ丸(本丸)跡北側の畝状竪堀群】 【二ノ丸(本丸)跡北側の畝状竪堀群】 【二ノ丸上段(本丸)跡】
【二ノ丸上段(本丸)跡】 【二ノ丸(本丸)跡北側の畝状竪堀群】 【二ノ丸上段(本丸)東側・腰曲輪】
【二ノ丸上段(本丸)東側・腰曲輪の堀切】 【腰曲輪より見た二ノ丸上段(本丸)跡】 【二ノ丸上段(本丸)東側・腰曲輪堀切から続く竪堀】
【二ノ丸下段から見た本丸(西ノ丸)方向】 【二ノ丸下段と本丸間の堀切】 【二ノ丸下段と本丸間の堀切】
【本丸入口】 【本丸(二ノ丸)跡】 【本丸(二ノ丸)跡の城址碑】
【本丸(二ノ丸)跡北側の腰曲輪】 【本丸(二ノ丸)跡東側】 【三ノ丸(東ノ丸)へ続く城道】
【三ノ丸(東ノ丸)へ続く城道】 【三ノ丸(東ノ丸)へ続く城道】 【三ノ丸(東ノ丸)跡】
【三ノ丸(東ノ丸)跡の城址碑】 【三ノ丸(東ノ丸)北側の畝状竪堀群】
わかりづらいがうっすらとラインが見えます。
【三ノ丸(東ノ丸)北側の畝状竪堀群】
【城址北側斜面】 【三ノ丸(東ノ丸)北側の畝状竪堀群】




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