城名 松倉城
住所 〒506-0031
岐阜県高山市西之一色町
入場時間
入場料
指定文化財 岐阜県の重要文化財
城郭構造 山城
天守構造
築城主 三木自綱(これつな)
築城年 天正7年(1579)
主な改修者
主な城主 三木氏
位置 北緯36度7分33秒
東経137度14分4秒
地図 本丸跡
二ノ丸跡
三ノ丸跡
本丸外曲輪跡
大手門跡
【概要】
岐阜県高山市にあった戦国時代の山城。戦国時代の飛騨の武将・三木自綱(これつな)の居城だった城で、高山市街の西南方向にある松倉山(標高857m・比高360m)に築かれていた本丸・二の丸・三の丸・出丸などを持った城郭である。

戦国時代、飛騨国北部は高原諏訪城を本拠とした江馬氏が、南部は三木氏が支配していた。三木氏は飛騨国守護の京極氏の支配のゆるみや国司の姉小路氏の内紛などを通じてしだいに勢力を拡大し、姉小路氏の家名を継ぐ存在になった。

三木自綱は織田信長と結んで勢力を強化しようとした。こうした状況にあった天正7年(1579)、自綱は松倉城を築き、桜洞城から居城を移した。一方、江馬氏は天文年間(1532〜55)頃に、甲斐の武田氏に属して守護家の姉小路氏を滅ぼして北飛騨を制圧した。その後、江馬輝盛は越後の上杉謙信に属したが、謙信の死後、その後ろ盾を失い孤立した。

天正10年(1582)の本能寺の変で信長が横死したことにより、三木氏は大きな後ろ盾を失った。江馬輝盛はこれを好機として南飛騨の制圧に乗り出し、古川盆地に侵攻して三木自綱との間に戦いが起こった。この戦いで輝盛が討死したことにより江馬勢は敗走し、滅亡した。

その後、自綱は小島城の小島氏や鍋山城の鍋山氏などの国人領主を滅ぼして飛騨を統一した。その翌年、自綱は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に対抗するため、隣国の越中を本拠として秀吉に敵対する越中富山城の佐々成政や越前の柴田勝家と同盟した。

このため、秀吉は天正13年(1585)に越前の大野城の金森長近に飛騨への侵攻と三木自綱の討伐を命じた。同年、長近は松倉城に攻め寄せた。松倉城は難攻不落といわれた堅城だったが味方の裏切りで落城し、三木氏は滅亡した。松倉城はその後、金森氏の管理下におかれ修復が行われたが、高山城の築城に伴い廃城となった。

現在、松倉山の山頂付近には、石垣で固められた曲輪の遺構が残っており、昭和31年(1956)に岐阜県の重要文化財に指定された。


【感想】
松倉山を下から登るとかなり歩くことになる。車ならシンボル広場まで行くと楽で良い。
登城口は搦手側からになるが上り詰めていくと目に飛び込んでくる西南隅櫓台の石垣がそれまでの疲れを吹き飛ばしてくれます。
大手道は二ノ丸からつながるが飛騨の里へ通じているため料金が発生してしまうので注意する必要がある。


登城日 2015年11月22日(日)
LINK 松倉城(飛騨国)-Wikipedia-
城主家紋 【剣 菱】
(宇多源氏佐々木氏流)
三木氏家紋

                      

探訪

※案内図より
【松倉遊歩道入口に立つ説明板】 【松倉遊歩道】
車道を通っても上まで行けます。
【松倉遊歩道】
【シンボル広場】
峠部分にある広場、車の場合はここに止めれます。
【登城口】
ここからが城域になります。
【搦手道】
【堀切】 【堀切】
この表示がないと堀切とはわからないくらいです。
【堀切】
【搦手道】 【櫓台石垣】
西南隅櫓跡になります。
【櫓跡脇の搦手道】
【本丸外曲輪南西隅の石垣】 【搦手門跡】 【腰曲輪跡】
【三ノ丸跡】 【三ノ丸の西南隅櫓跡】 【西南隅櫓跡から見た本丸方向】
【東南隅櫓の石垣】 【南石門跡と東南隅櫓の石垣】 【本丸外曲輪・南側石垣】
【南石門の跡】
ここから中間の道に繋がる。
【三ノ丸の石垣】 【東南隅櫓跡】
【二ノ丸へと続く城道】 【本丸外曲輪東南隅石垣】 【二ノ丸跡】
【籏立台】 【井戸跡】 【大手門跡】
【大手門跡と井戸跡】
大手道は「飛騨の里」に通じている。「飛騨の里」はテーマパークなので料金が掛かります。
【本丸外曲輪虎口】 【本丸虎口】
【本丸に置かれた説明板】
以前はちゃんと立っていましたが壊れてしまったようです。
【本丸跡】 【城址碑】
【三ノ丸(東ノ丸)へ続く城道】 【三ノ丸(東ノ丸)へ続く城道】 【三ノ丸(東ノ丸)跡】
【本丸を囲う石垣】 【飛騨山脈(北アルプス)展望】
曇っていて良く見えませんでした。
【本丸石垣】
【籏立台下の城道】 【二ノ丸石垣】 【二ノ丸石垣】
【二ノ丸石垣】 【二ノ丸石垣】
大手側の石垣になります。
観光〜飛騨高山美術館〜




Back



inserted by FC2 system