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城名 | 長浜城(旧名:今浜城) | ||
住所 | 〒526-0065 滋賀県長浜市公園町10-10 |
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入場時間 | 午前9時〜午後5時(入管受付午後4時30分まで)) 休館日:12月27日〜1月3日 |
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入場料 | 大人400円、小・中学生100円 団体20名以上 大人320円、小・中学生80円 |
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指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 平城 | |||
天守構造 | 不明(コンクリート模擬天守) | |||
築城主 | 羽柴秀吉 | |||
築城年 | 1573年 | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 羽柴氏、柴田氏、山内氏(一豊系)、内藤氏(信成系) | |||
位置 | 北緯35度22分39.65秒 東経136度15分40.87秒 |
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地図 | 1 | 本丸跡 | ||
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【概要】 天正元年(1573年)9月浅井長政滅亡後、湖北(琵琶湖の北部)を支配したのは、羽柴秀吉であった。姉川合戦と小谷攻めで手柄をあげた秀吉は、その功績によって浅井氏の領国の大部分を与えられ小谷城に入った。そして翌年天正2年夏には既に今浜(いまの長浜市公園町付近)に築城を開始している。秀吉が湖岸に城を移した理由は、琵琶湖の船運を重視した領国経営にあったと考えられる。天正3年秋頃に秀吉は小谷から今浜城に移り、地名を「長浜」と改めて天正10年まで在城した。 天正10年(1582年)には清州会議で長浜城は柴田勝家に譲られ、勝家の甥、勝豊が入場したが、その年の12月、秀吉は勝豊を攻めて、翌年の賤ヶ岳合戦の軍事拠点としている。 天正13年から18年まで山内一豊が城主となり、その入封後は次第に荒廃し、湖北真宗門徒の惣会所が城内に設けられたともいう。この時期湖北は、佐和山城主石田光成(元、長浜市石田町出身)の支配下に入っている。 慶長11年(1606年)には、徳川家康の異母兄弟内藤信成が城主となり大修築を行う。慶長17年その子信正が城主となるが、元和元年(1615年)摂津高槻城への移封によって、長浜城は湖北支配の役割を彦根城に譲って指名を終えた。 廃城後、石垣・櫓材などは彦根城などに運ばれ、長浜城は完全に失われた。長浜大通寺台所門や知善院表門などはその遺構と伝えられる。
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登城日 | 2008年9月14日(日) | ||
LINK | 長浜城歴史博物館 |
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長浜城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【五七の桐】 豊臣家家紋 |
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【二つ雁金】 (清和源氏足利氏流斯波氏族) 柴田家家紋 |
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【下がり藤】 内藤家家紋 |
【天守閣】 | 【天守閣】 | 【天守閣】 |
【天守閣】 | 【天守閣眺望〜琵琶湖】 | 【天守閣眺望〜琵琶湖】 |
【太閤井戸跡】 逆光で石碑が真っ黒w 後ろは琵琶湖。 |
【天守閣】> | 【天守閣】 |
【天守閣】 | 【天守閣】 | 【本丸跡】 |