城名 岡山城(別名:鳥城、金鳥城)
住所 〒700-0823
岡山県岡山市丸の内2-3-1
入場時間 午前9時〜午後5時30分(入場は午後5時まで)
休館日 12月29日〜31日
入場料 大人400円 小・中学生100円
指定文化財 国の重要文化財(月見櫓、西の丸西手櫓)
国史跡
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 複合式望楼型4重6階(1597年築)
(鉄筋コンクリート造外観復元・1966年)
築城主 金光氏、宇喜多直家、宇喜多秀家
築城年 大永年間(1521〜1527)、元亀元年(1570年)
慶長2年(1597年)
主な改修者 小早川秀秋、池田忠雄
主な城主 金光氏、宇喜多氏、小早川氏、池田氏
位置 北緯34度39分54.65秒
東経133度56分9.79秒<
100名城
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【歴史と沿革】
この岡山城は織田信長が建てた安土城にならって造られた日本を代表する城郭建築で、城の研究には避けて通れない貴重な城である。
いつも豊かな清水をたたえて流れる旭川、日本三名園の一つ「後楽園」を背景にしたこの城は、天守閣の土台(天守台)が北に大きく突き出た不等辺五角形という、全国に全く例のない珍しい形をしており、また塩蔵を併設した複合の天守閣である。その外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう)」とも呼ばれ、隣県の「白鷺城(はくろじょう)」とも呼ばれる姫路城と対比されることもある。
かつての岡山城の場所は、今の天守閣のある位置より西に300mほどいった、現在市民会館や放送局の建っている高台(「石山」という)にあった。天正元年(1573年)、宇喜多直家が当時城主であった金光宗高を滅ぼし、その城を修築した後、沼城から移ってきた。
今の岡山城を築いたのは宇喜多直家の実子、秀家で豊臣政権下57万4000石の大大名となった。そして年若くして、参議従三位という異例の出世をとげ、「備前宰相」と呼ばれた。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の主力となった秀家は八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易となった。代わって小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城した。
秀秋は2年後の慶長7年(1602年)10月に岡山で急死し、嗣子がなく小早川家は断絶した。
その後慶長8年、備前28万石は姫路城主池田輝政の次男忠継に与えられたが、幼少(五歳)であったので兄の利隆が「備前監国」として代政した。
それ以降明治まで池田家が藩主を務めた。

【感想】
一回目の登城だけでは見逃していた部分も数多くあり、市街地と化した部分にも多くの遺構がある。路面電車の城下駅付近のホテル近くには目の前に西ノ丸の石垣が迫るロケーションであるので、ゆったりと観光するのであれば是非泊まってみると良いでしょう。
今年の3月まで下段の平面表示の工事が行われていたようですが、現在はまだロープなども張っているので遠目の見学になります。
あとは説明板でも設置されるのを心待ちとしましょう。










 
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設置場所
岡山城天守閣入口
登城日 一回目:2008年9月16日(火)
二回目:2014年4月29日(火)
三回目:2022年11月5日(土)
LINK 【公式】岡山城ウェブサイト
岡山城-Wikipedia
城主家紋 【兒文字】
宇喜多氏家紋
【三つ巴】
小早川氏家紋
【備前蝶】
池田氏(備前)家紋
その他 岡山城に隣接する庭園

                      

探訪 
【宿泊したホテルロビーより西ノ丸石垣】 【西ノ丸・西手櫓】 【西ノ丸石垣】
【石山門跡】
廃城となった富山城(矢坂山)の大手門を移築したものと伝えられ、西ノ丸の石垣と南側の方形の石垣上に渡櫓を備えた櫓門でした。
【西ノ丸(二ノ丸)跡】
池田光政公の隠居所になってた。旧内山下小学校の校庭。
【池田光政公隠居所跡碑】
【西手櫓】 【旭川越しの月見櫓と天守】
【内堀越しの月見櫓と天守】
【内堀】 【内堀】 【内下馬橋】
【内下馬門跡】
本丸の正門があったところで、城の威厳や大名の権力を誇示するために、巨石が組み込まれている。
【大納戸櫓下石垣】
関ケ原合戦後に、小早川秀秋が築き、池田利隆が大幅に改修したとされる石垣。加工をあまり施さない自然石を用いてるが、上部ほど傾斜が強くなっている。
【大納戸櫓下石垣】
【内堀沿いの雁木】 【内堀】 【中の段南西石垣】
関ケ原合戦後い小早川秀秋が築き続く池田忠継の時に改修された石垣で、左隅は1620年代に池田忠雄が築いた割石積みの石垣が被さっている。あまり加工を施さない石材を緩い角度に積むのが特徴。
【月見櫓】 【月見櫓下石垣】
池田忠雄が1620年代に築いた石垣で、上には月見櫓が建っている。隅部は表面を特に平らにし整えた方形割石を配し、その長辺を交互に振り分けた算木積みとなってる。
【廊下門】(再建)
表書院(中段)から本段(上段)に渡した長廊下の下手に設けられた門で、岡山城の搦手に当たる門。
右側の石垣は池田忠雄が1620年代に築いた石垣で、搦手廊下門を守る小納戸櫓が上に建っていた。
【天守台の石垣】
昭和20年の岡山空襲により天守は焼失、天守台の石垣も焼けて赤く変色しました。今も焼けて変色したままになっており、空襲の激しさを伝えています。
【天守台の石垣】 【六十一雁木門と石塁】
関ケ原合戦後の池田氏が下段を大がかりに整備した時に築かれた石塁である。板状の大石を立てて組み込んだ部分が特徴的である。石塁の先の上端から本段石垣の中位に櫓門が架けられていた。
【本段東側の高石垣・右側】
宇喜多秀家が築いた石垣の隅角を小早川秀秋が石垣を継ぎ足して直線部に改修した跡が観察できる。この右側が秀秋が改修した場所であるが、丸みの強い石材を粗雑に積んでいる。
【本段東側の高石垣・左側と南側石垣】
左側は秀家時代の石垣で安定性の高い大形の石材をきちっと積んでいる。
【下段の平面表示】
まだ平面復元したばかりで名称を示す看板ももなく、何処が何かは不明でした。
【下段の平面表示】 【下段の平面表示】
穴粟櫓台と思われる。ここに三層の櫓がのっていた。
【下段の平面表示】
【本段南側石垣】 【下段より見た中段・不開門】 【中段の虎口】
この虎口を左折すると鉄門があった。
【鉄門跡】
下の段の南面から表書院へ通じる櫓門。石段の上部に木部の全体を鉄板で覆ったいかめしい門がありました。
【下段の平面表示】 【大納戸櫓跡】
本丸の大手を守る要となる三重四階建ての城内最大の櫓でした。
一回の平面は、長辺20m、短辺10mで、壁には黒い下見板が、張られており、藩政のための書類や道具類が保存されていました。
【表書院跡】 【表書院跡】 【伊部櫓跡】
白壁作りの三階建ての櫓で、平面は正方形でした。石塁に寄せ掛けて建っていたため、城外からは二階建てに見えた。
【泉水】
表書院の庭にあった泉水を復元しています。発掘調査で出てきた遺構は、地下に保存されています。
【多聞櫓跡】
伊部櫓と数寄方櫓の間に建てられた長さ30m、幅5mの二階建ての長屋で、石塁の上は平屋になっていました。
【数寄方櫓跡】
白壁造りの】三階建ての櫓ですが、伊部櫓「と同じように石塁に寄せ掛けて建っていたため、城外からは二階建てに見えた。
【月見櫓】(重要文化財)
中の段北西角を固める隅櫓。池田忠雄が城主であった時の城郭整備に伴って、元和年間から寛永年間前半(1620年代)に建てられた。日常生活向けの御殿仕様となっていて、月見をはじめとした四季の眺望を楽しんだり、小宴を催すのに格好の構造となっている。
【穴藏】
香川県豊島産の凝灰岩(豊島石)の切石で造られており、幅3.8m、奥行き2.9m、深さ2.3mあります。もとは屋根があり、非常用の食料を保存していたのではないかと考えられています。
【小納戸櫓跡】
本丸の搦手にあたる廊下門に迫る敵を向かい撃つために設けた二階建ての櫓。この櫓の西と南にはそれぞれ平屋の多聞が続いていた。
【宇喜多秀家時代の石垣】 【宇喜多秀家時代の石垣】 【廊下橋門】(再建)
本丸の搦手にある御門で、門扉の上に敵を迎え撃つための部屋を備えていた。部屋は本段と中の段を結ぶ城主専用の廊下としても使用されており、廊下門と呼ばれていた。
【搦手の石段】
廊下門を通り中の段へと続く石段。
【上の段虎口(搦手)】
廊下門を渡った先、上の段に入るための虎口。
【不明門】(再建)
表書院南端から本段にあがる石段の入り口に設けた渡櫓門。平素の出入りは北端の渡り廊下(廊下門)を使用し、この門は殆ど閉ざされていたことから「不開門」と呼ばれた。
【不開門】 【本段の石段】 【天守の礎石】
天守の再建する前の天守礎石。
【六十一雁木上門裏側】
本段から川手に通じる石段道の上にある門で、段が61段あったことからこう呼ばれました。
【天守】 【天守】
上の段搦手側、廊下門へと続く】 【旭橋より見た天守】 【旭川対岸より見た天守】
【旭川対岸より見た天守】 【後楽園の築山と天守】 【後楽園の築山と天守】
【旧岡山城(石山)本丸跡】 【旧岡山城(石山)本丸石垣】 【西ノ丸石垣】
 




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