powered by egmap.jp |
城名 | 野崎城 | ||
住所 | 〒574-0015 大阪府大東市野崎 |
|||
入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 畠山氏 | |||
築城年 | 室町時代 | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 畠山尚順 | |||
位置 | 北緯34度43分11.52秒 東経135度38分45.83秒 |
|||
地図 | 1 | 本郭跡 | ||
2 | 堀切 | |||
3 | 郭跡 | |||
4 | − | |||
5 | − | |||
【解説】 野崎城は、飯盛山南西の尾根、標高約111mの地点に築かれていた中世の山城で、城域は南北約200m、東西約180mと推定されています。当時の山城は、尾根上に防御のための「堀切(空濠)」と「郭」と呼ぶ平坦地を設け、そこに簡易な建物を建てるのが通例で、野崎城も南東側に堀切を持つ本郭と、その西側の尾根斜面に三段に設けられた四つの郭から構成されています。 当時は、深野池が山麓まで迫り、飯盛山からの尾根が最も突き出している当地は、眼下の東高野街道の交通を掌握することができる、地勢的に要衝の地でした。 『太平記』によると、四条畷合戦(1348)において、北朝軍の縣下野守がこの地に陣を置き、南朝軍の楠木正行と対峙した記述があり、この頃から、戦略上重要な地点であったことが推定されます。 応仁の乱(1467)以降の戦国期には、この地域でも頻繁に合戦が行われていたことが、当時の日記である『尋尊大僧正記』や『後法興院記』などに記され、その中に「野崎城」の文字を見ることができることから、この城が15世紀中頃には築かれたいたことが推定されます。 このように、軍事上重要な役割を担った野崎城は、北東の山上に飯盛山城が築かれた16世紀中頃以降は、その出城としての機能も有していたと考えられています。 (説明板より) 【感想】 慈眼寺(野崎観音)から登るとすぐにあるが、登る場所によってはそのまま飯盛山城の方へ行ってしまうので注意して登る必要があります。郭跡には休憩所が設けられ城跡なのかどうかよくわからない場所もあります。 本郭下の堀切はハイキングコースになっているため堀切と気が付かない可能性もあるので注意が必要です。 |
登城日 | 2016年10月16日(日) | ||
LINK | 野崎城-Wikipedia |
|||
城主家紋 | 【二つ引両】 (清和源氏足利氏流) 畠山氏家紋 |
※「野崎城址案内マップ」より |
|||
【慈眼寺(野崎観音)】 | 【慈眼寺側登城口】 | 【石造九重層塔】 | |
【郭跡】 慈眼寺の展望台になっています。 |
【下から見た上の郭】 | 【郭跡】 郭跡らしき場所には休憩所がある。 |
|
【郭跡】 ここにも休憩所 |
【郭虎口】 | 【本郭下の郭跡】 | |
【本郭下の郭跡】 | 【本郭跡】 | 【城址碑と説明板】 | |
− | − | ||
【堀切】 | − | − |