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城名 | 船岡山城(別名:船崗山城、山名城) | ||
住所 | 〒603-8227 京都府京都市北区紫野北船岡町 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 国指定史跡 | |||
城郭構造 | 山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 大内政弘 | |||
築城年 | 応仁元年(1467) | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 大内政弘、山名教之、細川政賢 | |||
位置 | 北緯35度2分22.92秒 東経135度44分30.72秒 |
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地図 | 1 | 主郭跡 | ||
2 | 曲輪跡 | |||
3 | 横堀跡 | |||
4 | 建勲神社 | |||
5 | − | |||
【解説】 標高約112m、東西400mの丘陵で、その優美な姿船の形に似ていることから「船岡山」と名づけられたと云われている。 一説には、平安京造営の際にここが東西の起点(玄武)となったともいい、「枕草子」でも”岡は船岡”として讃えられ、平安時代には数々の祭祀が催され、また遊宴の場とおなり、人々の生活に密着していた。 しかし、中世後期になると、戦略上の要衝になり、応仁の乱(1467〜1477)では、西軍の大内政弘、山名教之らがここに拠点を築いたが、応仁2年(1468)9月に東軍の細川勝元によって三方から攻められ攻め落とされた。 また、戦国時代の永正8年(1511)8月には、この岡に陣取った細川澄元と細川政賢が、室町幕府の政権を奪い返すたえ丹波から入京しようとした足利義尹、細川高国、大内義興らの軍を迎え撃ったが、戦に敗れて逃亡した。 その後、大徳寺に寄進され、昭和6年(1931)に都市計画により船岡山公園となり、現在は国の史跡に指定されている。頂上からは左大文字、場所を変えると鳥居形以外の五山が望め、市民の憩いの場として親しまれている。 (説明板より) 【感想】 遺構などは期待していなかったが、水が流れる溝みたいなものがかなりあるので調べてみるとこれが船岡山城の横堀跡だと知り、堀底を歩いてみると意外に長い距離残っており来てみて良かったです。 |
登城日 | 2016年12月17日(土) | ||
LINK | 建勲神社-船岡山について- |
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船岡山城-wikipedia | ||||
城主家紋 | 【大内花菱】 (渡来系多々良氏流) 大内氏家紋 |
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【二つ引両】 (清和源氏新田氏流) 山名氏家紋 |
※史跡船岡山見取り図より(加筆等有り) |
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【船岡山公園北口】 | 【応仁永正戦跡の碑と説明板】 この後ろの広場も曲輪跡とされる。 |
【曲輪跡に築かれた野外演奏情】 | |
【船岡山山頂(主郭跡)】 | 【船岡山の三角点】 | 【船岡山山頂(主郭跡)から見る五山の一つ左大文字】 | |
【あずまやがある広場(曲輪跡)】 | 【あずまやの広場からの眺望】 | 【あずまやがある広場付近の横堀跡】 かなりの距離の横堀がはっきりと残っています。 |
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【トイレ付近の横堀跡】 | 【トイレ付近の横堀跡】 | 【史跡 船岡山の碑】 建勲神社下にある。 |
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【建勲神社】 御祭神 贈太政大臣贈正一位 織田信長公 配 祀 従三位左近衛中将 織田信忠卿 |
【敦盛の歌碑】 | 【建勲神社社務所前(曲輪跡)】 | |
【手水鉢】 織田氏の家紋が掘られている。 |
【拝殿】 内側に織田信長公三十六功臣のうち十八功臣の額が飾れれている。 |
【神門(祝詞舎】 |