城名 吹田城(別名:石浦城、西之庄城)
住所 〒564-0072
大阪府吹田市出口町18-9
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 吹田氏
築城年 鎌倉時代以後
主な改修者
主な城主 吹田重通、薬師寺元長、吹田村氏など
位置 北緯34度45分51.84秒
東経135度31分01.84秒
地図 模擬門
模擬石垣
【解説】
吹田城は大阪府吹田市の吹田駅付近にあった日本の城。
城郭に関しては不明な点が多く、平山城だけの一城説や平山城と居城との複合説が指摘されている。

この城が最初史料に現れるのは、1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年)のことで『吉川家文章』によると6月9日足利氏に属していた安芸国の周防親家が水田城で合戦になり、追い落としている。それより100年後『摂津志』によると永禄年間には吹田重通が吹田城を根拠地をしていた。その後『応仁記』によると応仁元年(1467)の応仁の乱直後に、三宅氏(三宅城)、茨木氏(茨木城)、芥川氏(芥川城)の国人衆らと吹田氏は東軍に属し京都で戦いを繰り返した。しかし文明14年(1482)細川政元の国人一揆制圧の中、『大条院寺社雑事記』によると、吹田重通は摂津国守護代薬師寺元長に追われ、以後吹田城は薬師寺元長に与えられた。

大永6年(1526)、香西元盛と細川尹賢との角逐に端を発した争い(八上・神尾山両城の戦い)は、細川高国と細川澄元の合戦へ拡大していった。細川高国軍に与していた池田城を、細川澄元軍が中之島まで挙兵し、それ応じた三宅氏、吹田氏は吹田城周辺に陣を構えたが、伊勢国神戸衆、伊丹衆に攻められた。『足利季世記』によるとこの時吹田衆を率いていたのは吹田美童で打ち取られてしまった。

『日本城郭大系』では「吹田城の荒廃はこののちのことであろう」と記載している。しかし『市史点描』によると「1571年、信長方の武将、和田惟政が三好三人衆に味方したと思われる吹田氏を攻め、吹田城を攻略、57の首級をあげた。この戦は戦国時代の終末を示す吹田地域最期の激戦」としていたり、『吹田城散華』によると「吹田因幡は、はじめ三好三人衆に通じていたから、元亀2年(1571)和田惟政の吹田攻略に倒れ、その娘を縁組して、荒木村氏(『寛政重修諸家譜』によれば荒木村重の異母弟)が入婿となったのである。吹田城はこの時から、荒木の城となったといえる」としている。また『吹田城散華』では「荒木は、池田を焼き払う。恐らく吹田城も焼き払って、城主一族ともども伊丹に集結した」とあり、また『わが町すいた』によると「天正6年(1578)荒木村重とともに織田信長に反旗をひるがえし、翌7年非業の最期を遂げた吹田氏の居城の跡」とし、有岡城の戦い迄は存在していたとしている。
(Wikipediaより)

【感想】
JR吹田駅近辺は土地開発が進み、遺構は残っていない。
これほど開発しているのに、吹田城を明確に示すものが発掘されていないのも、不可思議ではある。現地を見ると今の状況で見ると片山公園が小高く城には適していると思えるが真実は如何に。

登城日 2017年2月19日(日)
LINK 吹田城-wikipedia
城主家紋 【五つ石】
(秀郷流小山氏族)
薬師寺氏家紋

                      

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