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城名 | 下赤坂城(別名:赤坂城、赤阪城) | ||
住所 | 〒585-0041 大阪府南河内郡千早赤阪村水分 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 国指定史跡 | |||
城郭構造 | 山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 楠木正成 | |||
築城年 | 鎌倉時代末期 | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 楠木氏 | |||
位置 | 北緯34度27分35秒 東経135度37分57秒 |
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地図 | 1 | 本丸跡 | ||
2 | 城址碑 | |||
3 | 甲取坂 | |||
4 | − | |||
5 | − | |||
【解説】 大阪府南河内郡千早赤阪村にあった平山城。 金剛山地から北方向へ延びる尾根上に位置し、元徳3年・元弘1年(1331)、後醍醐天皇に呼応して鎌倉幕府打倒の兵を挙げた楠木正成が築いた。 下赤坂城は同年9月に正成が挙兵したときの本拠であったが、急いで築城したため幕府軍の攻撃に耐えきれず、10月に城は落ちた。 正成は金剛山に潜伏し、翌元弘2年・正慶1年(1332)4月に下赤坂城を奪回したが、幕府軍に包囲されて再び落城した。正成は上赤坂城、千早城に退き、抗戦を続けた。千早城での攻防戦の間に幕府は滅亡した。 楠木正成が湊川の合戦で討ち死にした後は、楠木正儀がこの城に拠ったが、延文5年・正平15年(1360)に北朝方に攻められ城を捨てた。 現在、千早赤阪中学校裏の丘陵の一角に本丸跡の石碑が建っているだけで、城の遺構は残っていない。石碑の西側には「日本の棚田百選」に選ばれた下赤坂の棚田が広がっている。 (参考文献:日本の城がわかる事典) 【感想】 富田林駅からバスに乗り(土日は1時間に2本程度)20分程度、森屋バス停下車し甲取橋を目指し旧千早街道を進めば本丸跡から城址碑までを見ることが出来ます。 城址碑の近くには見事な棚田を見ることが出来ます。ちなみに城址碑に一番近いバス停は千早赤阪村立中学校前になります。 本丸跡から城址碑のある場所まで距離もあるため城址の縄張も広範囲のものだったと推察されます。 |
登城日 | 2017年2月26日(日) | ||
LINK | 千早赤阪村HP〜下赤坂城〜 |
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下赤坂城-wikipedia | ||||
城主家紋 | 【菊 水】 (橘氏というが不詳) 楠木氏家紋 |
【東条川】 | 【甲取(かぶとり)橋から見た甲取(かぶとり)坂口】 | 【甲取橋にある説明板】 甲取橋・甲取坂は元弘元年秋の古戦場跡でもある。 この場所にて攻め手を散々に翻弄せしめました。 |
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【甲取橋】 | 【甲取坂】 この急勾配を利用して、竹の皮を流して転ばせたり、太鼓をの中に蜂の巣を入れて転がしたりと奇策を用い攻め手を翻弄せしめました。 |
【旧千早街道】 右手が本丸跡になる。 |
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【本丸跡】 | 【本丸跡碑】 |
【本丸跡】 | |
【赤坂城軍事 楠木兵法 其之壱】 本丸の向かい近くの小屋にある。 甲取坂の奇策について書かれている。 其之弐以降が見つからず気になるところである。 |
【本丸付近からの眺望】 下方には千早赤坂村役場が見えます。 |
【城址】 今は耕地となっているが尾根の幅が狭いところもあり窪みもある。この窪み部分は堀切だったのかも知れませんね。 |
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【城址碑】 城址碑は千早赤坂村立中学校裏にありますが、この箇所が城址のどの部分に当たるのかは不明です。 |
【説明板】 | − | |