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城名 伏見桃山城(史実にはない近代建築)
/伏見城(別名:指月山伏見城、木幡山伏見城)
住所 〒612-0853
京都府京都市伏見区桃山町大蔵
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 伏見城:不明(指月山・1592年築)
    /(木幡山・1596年築/1601年再)
伏見桃山城:複合式望楼型5重6階(コンクリート造模擬・1964年築)
築城主 豊臣秀吉
築城年 1592年
主な改修者 徳川家康
主な城主 豊臣氏、徳川氏
位置 北緯34度56分13.32秒
東経135度46分52.06秒(現伏見桃山城)
地図 伏見桃山城
治部池
明治天皇陵墓
二の丸
北堀跡
【概要】
文禄元年(1592)豊臣秀吉は隠居所として伏見の地を選んで築城。この城は後の伏見城に比べると規模も小さく、指月城(指月山伏見城)と呼ばれた。その後、文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)の講和使節を迎えるのに際し、文禄3年(1594)諸大名に命じて大工事の末に絢爛豪華な城を築き上げた。

しかし、この城も慶長元年(1596)7月の大地震で倒壊。このため朝鮮使節との会見は大坂城で行い、秀吉は直ちに城の再建を命じ、10月には本丸、翌慶長2年(1597)5月には天守をはじめ殿舎が完成した。
これが木幡城(木幡山伏見城)。翌慶長3年(1598)8月、秀吉が伏見城で逝去すると、直ちに徳川家康が伏見城に入城。徳川政権への大きな足固めとなった。
慶長5年(1600)家康は鳥居元忠に伏見城の守備を命じ、自らは会津上杉氏の征伐に向かった。その隙に乗じて石田三成らが挙兵、大軍でもって攻撃したため伏見城は炎上して落城、関ケ原の合戦の前哨戦となった。

戦火を受けた伏見城は家康の手によって慶長6年(1601)に復興され、慶長8年(1603)二条城で征夷大将軍の宣下を受けた家康は伏見城で政務を執ることが多かったため「伏見幕府」とも呼ばれた。三代将軍家光が将軍宣下を受けたのも伏見城であった。

元和元年(1615)大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡、三代将軍家光の時代となると江戸幕府の基礎も固まったため伏見城の廃城を決定。寛永2年(1625)伏見城の破却は完了し、五層の天守が二条城に移築されたほか、城内の建物や石垣は寺社など各所に転用された。二条城の天守や大坂城の伏見櫓は焼失したが、現存する代表例が福山城伏見櫓である。


登城日 2008年12月6日(土)
LINK 伏見城-Wikipedia
城主家紋 【五七の桐】
豊臣家家紋
  【徳川葵】
徳川家家紋

                      

探訪〜伏見桃山城〜
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【明治天皇陵墓入口】 【治部池】 【伏見城の石垣に使用された石材】
【明治天皇陵墓】
正面の山が木幡山。
【明治天皇陵墓】 【陵墓からの景色】
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探訪〜伏見城遺構〜
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【能舞台】(福山城→沼名前神社】 【茶室】(高台寺/傘亭・時雨亭) 【石垣】(伏見東小学校)
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【祓所】 【伏見の御香水】 【伏見の御香水】
【松尾社】 【東照宮】 【弁天社】
【稲荷社】 【大神宮】 【豊国社】
【能舞台】 【伏見城跡残石】
グルメ
ジャンル:そば
店名:御食事処 名代生そば 萬幹堂 桃山
住所:〒612-8038 京都府京都市伏見区鍋島町1 
TEL:075-601-0596

二条城から移動してお腹が減ってきたので、御香宮神社すぐそばの
お店に、お店のお勧めなのか”にしんそば”の文字が目に入り(壁に貼ってあった)、
注文してみました。
にしんの香りとカイワレの緑が鮮やかに飛び込んできて食欲をそそります。
そばには腰もあって美味しかったです。
でも、隣の蓮華はスープ飲むときに使うのでしょうか?
そばに付いてくるの初めて見たので、使うの躊躇して結局使いませんでしたw




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