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城名 | 瀬田城(別名:勢多城、山岡城) | ||
住所 | 〒520-2134 滋賀県大津市瀬田2丁目 |
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入場時間 | - | |||
入場料 | - | |||
指定文化財 | なし | |||
城郭構造 | 平城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 山岡氏 | |||
築城年 | 永享年間(1429年~1441年) | |||
主な改修者 | - | |||
主な城主 | 山岡氏 | |||
位置 | 北緯34度58分16秒 東経135度54分24秒 |
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地図 | 1 | 城址碑 | ||
2 | 瀬田の唐橋 | |||
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5 | - | |||
【解説】 瀬田川は琵琶湖から流れ出る唯一の川であり、瀬田川に架かる瀬田橋は「急がば回れ」の語源ともなった橋で、壬申の乱以来、源平の戦いなどで交通・軍事上の重要戦略拠点であった。 その瀬田橋の袂に甲賀武士の流れをくむ佐々木氏家臣の山岡景房(資広?)が永享年間(1429〜1441年)に瀬田城を築いた。それから以降、瀬田城は代々山岡氏の居城となった。 織田信長政権下では山岡氏9代の美作守景隆が、瀬田橋を守る城主として活躍、織田信長からの信頼が厚く織田信長は上洛のたびに瀬田城を宿所としていた。 天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、安土城を占拠するため瀬田橋に軍を進め、景隆を味方にせんものと使者を立て勧告するが、景隆は主君の恩顧を裏切れないと応ぜず瀬田橋を焼き西岸の舟を集めて光秀の進軍を阻んだ。これにより明智光秀はいったん兵を引かざるを得なくなり、橋の修復に三日を要したが、瀬田城を攻め景隆は力尽き自ら城に火を放ち甲賀へ引き上げそれ以来廃城となった。 その後、膳所藩の別亭となり禅僧天寧が庵を建て「臨江庵」と名付けた。その臨湖庵の跡地に料理旅館「臨江庵」が建ち、現在は高層マンション『グランスイート近江・臨江庵』が建っている。 【感想】 瀬田城の遺構はほぼないと言ってよいでしょう。マンションの塀の部分に石垣がありますがそれが遺構なのかはわかりません。ただそこに城址碑があり城だったことがわかります。廃城になった後に建てられた臨港庵という庵の名前が今もマンションの名前に使用されているのは不思議な感じがします。 城跡には何もありませんでしたが瀬田の唐橋歩いて渡ったというだけでもここに来た価値はあったかなと思います。 |
登城日 | 2017年4月2日(日) | ||
LINK | 滋賀・びわ湖観光情報~瀬田城跡~ |
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瀬田の唐橋-wikipedia | ||||
城主家紋 | 【黒餅に木瓜】 (近江伴氏流) 山岡氏家紋 |
【瀬田唐橋(西側)】 現在の唐橋は中洲を挟んで二つに分かれている。西側は短い方です。 |
【瀬田川(西側)】 | 【瀬田唐橋(東側)】 | |
【唐橋から見た瀬田城跡】 | 【瀬田の唐橋】 滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋。全長260m。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を渡る。 |
【瀬田城跡と瀬田川】 | |
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【瀬田城跡】 | 【瀬田城・城址碑】 | - |