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城名 | 私部城(別名:交野城、片野城) | ||
住所 | 〒576-0052 大阪府交野市私部6丁目13-11 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 連郭式平城 | |||
天守構造 | 不明 | |||
築城主 | 安見右近 | |||
築城年 | 永禄11年(1568) | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 安見氏 | |||
位置 | 北緯34度47分22.40秒 東経135度40分49.34秒 |
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地図 | 1 | 本郭跡 | ||
2 | 二郭跡 | |||
3 | 三郭跡 | |||
4 | 堀跡 | |||
5 | 土塁跡 | |||
【解説】 ※資料には「交野(かたの)城」として紹介されていることが多いですが、現地の城址碑に合わせて「私部(きさべ)城」として記載します。 交野(片野)は当時京都、奈良、摂津を繋げる交通の要衝であり、河内にとってもとりわけ重要な個所であり、室町時代の永禄11年(1568)頃、河内の実力者安見宗房の一族である安見右近によって現在の交野市の北方にある、自然の要害となる2つの川(免除川、百々川)や、小高い丘、池等があるこの地に私部城を築城。 この安見右近は、三好家と敵対関係にあった安見宗房とは一線を画し、三好長慶死後の永禄8年(1565)頃、三好氏重臣松永久秀の配下に入り、久秀の命により私部城を築いたようです。 後に、安見右近と松永久秀は、摂津進出、平定を目論んでいた織田信長の配下に就くが、その最中の元亀元年(1570年)に私部城は完全に完成したようである。 織田信長もまた、この私部野城を重要な拠点と位置付けしていたとされている。 元亀元年(1570)には三好三人衆を牽制する為、信長公記にあるように「片野の安見右近」は城を堅固にかためていた。 しかしその翌年、松永久秀は突如として信長を裏切った。そうとは知らない安見右近は久秀の策略にはまり、多聞城に呼ばれ、そこで自刃して果てた。自刃後すぐに、久秀、久通父子は私部城に向け出陣、私部城を攻めるが、なんとかこれを持ちこたえる(多聞院日記)。 翌元亀3年(1572)にも松永久秀は私部城を攻撃するが織田信長配下の柴田勝家、佐久間信盛らが城の救援に駆けつけ、これを退けているが、天正元年(1573)に筒井順慶によって攻め落とされている。 正確な廃城時期は不明。織田信長が本能寺の変で没した後に廃城された可能性もある。 【感想】 城址の周囲は間近まで住宅街が迫り、よくここまで遺構が残ったなと思うほどである。 二ノ丸跡に案内板があるようですが、見つけることが出来ませんでした。 城址碑は住宅街の一画、藪に囲まれてひっそりとあるので、季節によっては見つけられない可能性もあります。三ノ丸跡はすっかり宅地化されていますが、城の北側の道路から見ると曲輪であったことが良くわかります。 |
登城日 | 2017年4月23日(日) | ||
LINK | 星の町かたの-私部城(交野城)- |
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交野城-wikipedia | ||||
城主家紋 | 【下り藤】 (三宅氏後裔?) 安見氏家紋 |
※「日本城郭体系12」より(加筆有り) |
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【@土塁跡】 すっかり竹に覆われているが、見ればこれが土塁だとわかります。 |
【@土塁跡】 | 【A堀跡】 | |
【B堀跡と土橋跡】 左側が二郭跡、右側が本郭跡になり、手前部分に行き来するための土橋があったようです。 |
【C二郭虎口と切岸】 | 【C二郭跡】 | |
【D城址碑】 | 【E三郭跡】 | 【F百々川】 | |
【G百々川】 | 【E三郭跡とI堀跡】 | 【H本郭跡とI堀跡】 | |
【I堀跡】 | 【H本郭跡とB、I堀跡】 | 【B堀跡】 | |
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【H本郭切岸】 | 【H本郭跡】 | − |