城名 大阪城(別名:金城、錦城)
住所 〒540-0002
大阪府大阪市中央区大阪城1-1
入場時間 開園時間(天守閣のみ)
午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
ただし、例年春・夏・秋には時間延長を実施
休館日:年始年末(12月28日〜1月1日)
入場料
大人 600円
中学生以下無料
団体割引15名以上あり
指定文化財 国の重要文化財(櫓・門など)
登録有形文化財(再建天守)
特別史跡
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 複合式望楼型(豊臣期)
独立式層塔型(徳川期)
いずれも非現存
望楼型五重八階 鉄筋コンクリート造
築城主 豊臣秀吉、徳川家康
築城年 天正11年(1583年)
主な改修者 徳川秀忠
主な城主 豊臣氏、松平氏、徳川氏
位置 北緯34度41分14.56秒
東経135度31分33.04秒
【概要】
明応5年(1496)、本願寺8世法主蓮如が山科本願寺の別院として大坂御坊を建立し、これが石山本願寺の起源となった。その経緯を述べた蓮如の御文章は「大坂」という地名が見られる最初の文献である。
天文元年(1532)、山科本願寺が戦国の争乱に巻き込まれて焼き討ちに合い、逃れた十世証如らは、翌年大坂御坊を本願寺とした。この石山本願寺は、堀・塀・土塁などをもうけて武装を固め、戦国武将細川晴元らの攻撃に備えたため、次第に難攻不落の城砦として強化された。また、次第に寺内町も発展し、11世顕如の代に本願寺隆盛の絶頂期を迎えた。

織田信長の天下統一の野望に最も頑強に抵抗したのは一向宗(浄土真宗)本願寺派の門徒集団であり、その総本山が法主顕如を推戴する石山本願寺であった。元亀元年(1570)から11年に及ぶ長い戦争の結果、天正8年(1580)信長は顕如を本願寺から退去させることに成功したが、堂塔伽藍は全焼し、現在もこの時代の遺構は謎に包まれている。 『信長記』には、「そもそも大坂はおよそ日本一の境地なり」に始まる有名な一節があり、大坂の優れた地勢について詳しく述べられている。信長は本能寺の変に倒れたが、この地に築城を期していたことは想像に難くない。

天正11年(1583)、秀吉は石山本願寺跡に大坂城の普請(築城工事)を開始した。一般には日本のお城のシンボルは天守閣であるが、空にそびえる大天守が初めて作られたのは織田信長の安土城である。信長の後継者を自認する秀吉は、安土城をモデルとしながらも、すべての面でそれを凌駕することをめざした。
秀吉創建の大天守は外観5層で、鯱瓦や飾り瓦、軒丸瓦、軒平瓦などに黄金をふんだんに用いた。また秀吉は自ら好んで多くの来客に本丸内を案内してまわり、金銀の装飾にあふれた奥御殿の内部、大天守の各階に納められた財宝の山など、空前の富の集積を誇示して来訪者を驚嘆させた。

秀吉の大坂城は、本丸の築造に約1年半を費やし、その後も秀吉が存命した15年の全期間をかけて、徐々に難攻不落の巨城に仕上げられた。また、城づくりと同時に町づくりが行われ、秀吉時代の大坂は近世城下町の先駆けとなった。 領主の邸宅である城を中心とした広大な領国の首都、そして政治・経済・軍事・文化の中心都市として城下町大坂が建設されたのである。

大坂夏の陣で廃墟同然となった大坂城は、家康の孫である松平忠明に与えられた。忠明は、大坂の町の復興に努めたが、この間、大坂城の本格的な再建はなかったと考えられる。
元和5年(1619)大坂は幕府直轄領となり、翌6年(1620)2代将軍徳川秀忠により大坂城再築工事が起こされ、3期に渡る工事を経て3代将軍家光の時に完成した。

【感想】
さすが天下の名城・大阪城半端なく広いです。
ただ現在残っているのは徳川時代の遺構で、豊臣時代の遺構はことごとく徳川時代の遺構の下に埋められています。ただ、現在建っている天守は徳川時代の天守ではなく豊臣時代の天守を模しています。
それだけ大阪の地は豊臣家あって栄えたんだな〜とつくづく思いました。

100名城
スタンプ

スタンプ
設置場所
天守一階インフォメーション
登城日 1回目:2008年12月7日(日)
2回目:2009年4月17日(金)
3回目:2015年5月27日(水)
4回目:2016年10月2日(日)
5回目:2019年4月6日(土)
LINK 大阪城天守閣HP
大阪城-Wikipedia
城主家紋 【五七の桐】
豊臣家家紋
【徳川葵】
徳川家家紋

探訪

※大阪城公園案内図(加筆あり)
【六番櫓と南外堀】 【六番櫓】 【大手門一望】
【千貫櫓】 【大手門】(高麗門) 【大手門】(多聞櫓)
【大手門枡形内鉄砲狭間】 【大手門の巨石】 【太鼓櫓跡】
【石山本願寺推定地】 【二の丸内の井戸】 【六番櫓】
【空掘】 【一番櫓】 【豊国神社】
【豊臣秀吉像】 【蓮如上人袈裟がけの松】
徳川築城の大阪城は秀吉時代の上に築城しているので本願寺時代の遺構は地表には出てこないので伝説とされている。

【玉造口】
【一番櫓】
玉造口より
【内堀と空堀】 【東側より天守】
【市正曲輪】
豊臣秀頼の後見人として重要な位置にいた片桐東市正且元の屋敷があったことから名がつきました。今は梅林になっています。
【北外堀】 【北外堀】
【本丸北東側石垣】 【青屋門虎口】 【青屋門虎口】
【青屋門】 【極楽橋と内堀】 【極楽橋と天守】
【極楽橋と天守】 【秀頼・淀君ら自刃の地】 【山里曲輪にある石段】
【?】 【北東本丸虎口】 【隠し曲輪】
【隠し曲輪】
大坂城の本丸に唯一築かれた帯曲輪で、江戸幕府による大坂城再築時のものである。
出入口が狭くて気付かれにくく、兵士を隠す場所だったことから、一般に「隠し曲輪」と呼ばれた。
一時期幕府の焔硝蔵(火薬庫)が置かれたこともあり、立ち入りが厳しく制限されていたことから、ここに秘密の抜け穴があるとの伝説も生まれた。
なおここでは、石垣の築造を担当した加藤家(伊予大洲藩)、小出家(丹波園部藩・但馬出石藩)の刻印を間近に見ることができる。
【隠し曲輪より見た天守】 【隠し曲輪の鉄砲狭間(銃眼)】
【天守下仕切門跡】
天守台の西側は石組によって南北が隔てられており、通路となった個所の門を仕切門と呼んだ。北から本丸中心部へ侵入しようとする敵の直進を妨げるため両脇の石垣を行き違いにとし、そのため門は東に向いていた。徳川幕府による大阪城再築時に築かれ、明治維新の大火により石垣上にあった塀ともども焼失したと考えられる。
【天守】 【残念石】
【天守と登城口】 【金蔵】 【本丸より天守】
【本丸御殿跡】 【本丸男子トイレ】
正面の壁が石垣何って、石垣にしているみたいw
【銀明水井戸の井筒】
【蛸石】
桜門正面の巨石
【桜門】 【本丸日本庭園】
【庭園越しの天守】 【本丸から見た隠し曲輪】 【大阪の陣400年オブジェと天守】
【金明水井戸屋形】 【号砲】 【鯱】
【山里曲輪】 山里曲輪より本丸方向】 【淀君並び殉死者三十一名供養像】
山里曲輪の石垣上にひっそりと祀ってあります。
【刻印石広場】 【堀巡り用の舟】 【北西側二ノ丸より天守と内堀】
【伏見櫓跡】 【京橋口巨石】
大阪城内で二番目に大きな肥後石と呼ばれる加藤清正が運んだ巨石があります。
【京橋口虎口】
【西側内堀より天守】 【西の丸へ続く高麗門】
今は閉ざされています。
西の丸へは大手門側から。
【乾櫓】
【西の丸より天守】 【焔硝蔵】
西の丸内
【焔硝蔵】
【西の丸庭園】
庭園なのか〜と思うほど何もない芝生に覆われた洋風庭園。
【大阪迎賓館】 【西の丸より天守】
【乾櫓】 【坤櫓跡】 【千貫櫓】
【春の天守】
お城は桜が映えますね。
頂き物の写真です、感謝。
【夕暮れ時の天守】
本丸庭園より
【ライトアップされた天守】
北東本丸虎口より
【ライトアップされた天守】
極楽橋より
【KKRホテル大阪から見た大阪城】 【KKRホテル大阪から見た大阪城】
【國民會館・住友生命ビルより見た大阪城】
手前は乾櫓
【國民會館・住友生命ビルから見た大手門方向】
千貫櫓・大手門そして屋根だけですが木々越しに六番櫓も見えます。
【國民會館・住友生命ビルから見た天守】
探訪〜櫓内部特別公開〜
【多聞櫓入口】 【多聞櫓内部】
左側は大手門枡形に面しており多くの狭間がある。
【多聞櫓内鉄砲狭間】
【渡櫓門内部】 【大手門枡形】 【渡櫓門から千貫櫓に続く通路】
【千貫櫓内部】 【千貫櫓より見た大手口】 【千貫櫓】
【焔硝蔵】 【焔硝蔵内部】



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